[アレルギーー環境病という宿命]


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今、東洋医学を勉強しているのだが、その概念によると、
「人間は環境と作用し合って存在する総合的な有機体」だそうである。

まさしくその通りと思う。
人は、環境との関わりなしに生きていくことはできない。
生活環境に存在し、日々接触している幾多の物たち。
私たちの体を作る材料となる飲食物にしたって、環境の一部を取り込んでいることに他ならない。
この地球上で一緒に生きている身の周りの人たちですら、環境とも言える。

そして人は、動的平衡状態の中で生き続けていくものだ。
西洋医学で言うホメオスタシスであるが、東洋医学でも同じ考えなのだと、今回初めて知った。

時々刻々変化する環境への対応をすべく、常に変化し、新しい平衡状態を作り続けている。
去年と今年、春と冬、洋食を食べた後と和食を食べた後の私は、同じではない。
異なる環境に適合しようとする、違う努力をしている私である。

こうした考えは、科学と言うより哲学と分類されるべきものかもしれないが、東洋医学では紀元前から、西洋医学でも世紀単位で維持されてきた人間世界への理解であり、深い真実と言っていいものと思う。

ごく自然に何事もなく変わらずいるように見えるどの人の体も、この一刻一刻に、全身の細胞とその間を伝わっていく物質・非物質を総動員して、環境に適応するための不断の努力を続けているのである。


ずっと以前に当サイトのゲストブックで「アレルギーの根本原因は?」と聞かれ、次のように答えたことがある。

>あくまで私見ですが、「物質・心理両面を含めたあらゆる環境因子に対する、何らかの不適合」だと思います。
>人類全体という視野で見るなら、「種としての生存のために、環境に適合していく過程(の不都合な変化)」と思います。

この時、質問者の方には私の考えを理解して頂けなかったが、今もその考えは変わっておらず、むしろこうした折々の度、より強固となるのを感じる。

人の体は、環境のあらゆる因子に順応するための、卓越した機能を備えている。物理的にも、生化学的にも、精神的にも。
基礎医学を学べば学ぶほど、その複雑精緻で何重にも張り巡らされた補正の仕組みに、ただただ驚嘆するばかりである。

だがその素晴らしき小宇宙すら、対応しきれないこともある。
あたかも部品が欠けるように、その複雑な仕組みのどこかの要素が欠けていた場合。
あるいは、どこかの要素の働き方が、間違ってしまっている場合。
機械としての体の処理能力を、超えてしまった場合。

そんな時に、人は病気になるのだろうと私は思っている。
そしてその誤作動が記憶として体の回路に刻み込まれ、同じアレルゲンが入ってくる度に同じ反応がくりかえされるのが、アレルギーだ。

だから、現代にアレルギー患者が急増しているのは、不思議ではない。
環境中の新物質が、産業革命以降の開発で、倍々規模で増え続け、それらが大海の水のように溢れる中を、泳いで生きる時代になっているのだから。


100の物質への適応より、10000の物質への順応がより難しいのは、自明の理だ。
対応しなければならない環境物が増えれば増えるほど、誤作動の可能性は増えていく。

そして気を付けなければならないのは、誤作動の対象物が1つで済むとは限らない、ということ。
多くの人は、1つの物に原因を求めたがる。
添加物が悪い、水道水の塩素が悪い、携帯電話が悪い、といったふうに。

しかし現実は、すでにそう簡単ではないと見受けられる。
そう、現代の現実は。

かつて1980年代頃までは、ホコリダニがだめな人は一生懸命掃除をすれば、ミルクがだめな子は牛乳・乳製品を除去さえすれば、見るべき成果が見られた。
そんなアレルゲン対策なら、誰しもやりがいがあるというものだ。

しかし最近では、複数の食物に反応が見られることは普通だし、大人のアトピーの人が必死で原因と思われる物を次々除去しても、いっこうに改善が見られないこともよくある。
結果の出せないアレルゲン対策を、続けていくことは難しい・・・。

けれど、この考え方に基づけば、そのアレルゲン対策が外れているのではないことが分かるだろう。
その原因は除けたけれども、他にも大きな原因が残っている、1つか、幾つもか、沢山かの原因が。
ただそれだけのことなのだ。


では、そんな世をどのようにして生き抜いていけば良いのだろう。

まず、無用の物には接しないことだろう。
私は活動の範囲を狭めることは勧めない。社会人として十分に生きるため。
けれど、自分が使わなくて済む物なら、使わないにする。
宣伝に乗せられて健康を害しても、誰も元の体に戻してなどくれない。
「それのせいではない」か「治す方法はない」と言われるのがおちなのだから。

そしてアレルゲン対策を無駄だと思わないこと。

あなたが何度も使って「私にはこれはダメだ」と思うなら、その判断はそう間違っていないだろう。
確かに、いくつものアレルゲンが重なって反応しているときは、因果関係が明確に感知されにくく、原因を特定することは難しい。
いわゆる覆面型の食物アレルギーであれば、除去した後少量食べる負荷試験のような明瞭な反応は出ないだろう。
それでもそれは、実際に使って症状が出るかどうかを見ているのであり、試用試験に他ならない。
自分で日々検査をしているようなものだ。

もちろん医師に検査してもらうにこしたことはない。
しかし、受診しても簡単に結論の出る問題ではない。
血液検査の結果は参考値だし、負荷する形の検査は大変で、実施施設も限られる。
それはそれで重要だが、実際の日常のできごとへの対応は、自分で判断しなければならない。

医師によっては、避けきれないからとアレルゲン対策を軽んじる人も多い。
除去しても改善しないからアレルギーではない、という人もいる。
でも、そうではないと思う。

科学的証明を重んじる現代医学は、
「証明されないこと=存在しないこと」とする落とし穴に嵌り易い。

子宮頸癌ワクチン接種後に失神者が多数出ても、原因は「注射の痛みや恐怖心」。
ヒブワクチンと肺炎球菌ワクチンを同時に接種した小児が何人も死亡しても、「因果関係は認められない」とわずか1カ月で接種再開だ。

その考え方の方が、よほど「非科学的」ではないか?と私などは思う。
新しい薬を始めた時、今まで滅多に起きていなかった事象がくりかえし観察されるならば、例え証明できないとしても「関係がある可能性がある」と判断する方が妥当だろう。

確かに、食物アレルゲンに関しては、生存や成長に必要な栄養や水分を確保するため、過剰制限は慎まなければならない。
アレルゲンを取り込まないことに熱心になる余り、発達や内臓機能や命に差し障っては、元も子もない。
慢性の不調に慣れ過ぎて、医学的対処が必要なそれ以上の状態になっているのを、見過ごしてはならない。

けれどそれらを満たした上での日常生活の中での無理のないアレルゲン対策なら、意味のあることだ。
それを実行できるのは、他でもない患者本人と周囲の者だけである。
今は成果が感じられなくても、体への余計な負担を減らしていることに間違いはない。
体を疲弊から守り、新たなる誤作動が加わる危険性を減らすだろう。

それから、保湿をどうするかは意見の別れる所だと思うが。

理論的には、保湿剤を塗って人工的な仮の皮膚バリアー(障壁)を作れば、環境中のアレルゲンの皮膚からの侵入を防げることになる。
だから、実際に使ってみて、楽になるなら使えばいいと思う。

ただし、アトピーの場合は、遺伝子障害による先天性の角化症のような
「作れないのだから、ずっと一生外から補い続けるしかない」
というのとは、違う考え方で見るべきだと思う。

アトピーの子は、お母さんのお腹から生まれ落ちたときには、かさかさ肌ではない。また、成長とともに自然治癒していく傾向のある病気である。
ということは、バリア機能が完全に欠損しているわけではない。
いずれ補わなくていい肌になれる可能性が十分ある。

最近では、遺伝性の角化症である魚鱗癬(ぎょりんせん)と同じフィラグリン遺伝子異常がアトピー性皮膚炎にあることが分かり、もっぱら話題となってもいるが、その異常は1つのリスク因子として働くにすぎないのだろう。

だから、自前の肌でやっていけるなら、補わなくてもいい。

そうして、自分の体の処理能力を上げることも大事だ。
荒れた生活は避け、規則正しく、人間の生理機能にあった昼間に活動し、夜はよく休む。
精神がすり切れないように、するだけのことをしたら、後は憂いを持たぬがいい。

たぶん、外用ステロイドを使わずにやっていこうとしているアトピーの方なら、先刻承知、みんなとっくに実行していることを、つらつらと書き並べたかもしれない。

「それでも、よくならなくて、もがいてるんだよー」という状態の方も、沢山おいでだろう。

私自身も、これらでは足りなくて、自らの運命を呪い、代替療法に活路を求めてどうにかかなりの回復を見たおかげで、今の日々を過ごしている者である。

けれど、呪いつつも、これが避けられない現代人類の宿命なのだと、冒頭の考察をしながら考える。
そうして、自分と同じようにその宿命を背負うべく選ばれた人たちのことを思う。

やせ我慢をせずに、その宿命を嘆いていい。
そして決して、自暴自棄にはならないで。
誰かを責める人にもならないで。
これは、私たちに呈示された課題なのだ。

2012.7  

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