朝青龍を応援 






横綱朝青龍関が、「怪我で夏巡業を休みながら、モンゴルでサッカーをしていた」として、処分を受けた。


彼の行動は非難の的となっている。
「横綱の立場をわきまえない、許すべからざる行為である」
「相撲界の秩序を乱す行為として、厳しく対処せざるをえない」
という見方が大勢のようである。

しかし私は、どうしてもそう思うことができなくて困っている。


私は相撲ファンではない。むしろスポーツ全般に対して、門外漢である。
だから、国技である相撲に日本人皆が寄せる、熱い期待と憂慮を理解できない、ということなのかもしれない。

それでもともかく、私の考えを書いてみよう。


私には、この件は、朝青龍個人の横綱としての品格のなさの問題というより、相撲界の体制の問題であり、国際問題であるように見える。

なぜなら、彼がもし日本人力士であったなら、休暇中に故郷モンゴルに帰ることもなく、そこで政府から国の英雄としてサッカー大会に参加するよう依頼されることもなかったからだ。
そうした彼の存在が引き起こす出来事が、相撲界の問題を浮かび上がらせる。

彼は、日本の国技である相撲を担う、もっとも権威ある横綱という立場にいる。
さりながら、彼は日本人ではなく、モンゴル人である。
これは、考えられている以上に、微妙な立場なのではないか。


プレイしている姿ばかりが取り上げられているが、そもそも今回朝青龍は、個人的に自分の楽しみのためにサッカーをしようとした訳ではない。
偶然会った友人中田英寿氏と、英雄朝青龍の帰郷を知ったモンゴル政府から、チャリティーサッカー大会への飛び入り参加を依頼されたのだという。
その場の雰囲気の流れで、プレイを披露することになったのだそうだ。

朝青龍が、祖国になにがしかの貢献をしたいと思うことは、自然であり、むしろ立派と言ってもいい。
普段は、したくとも、遠い日本で果たすべき沢山の義務を抱えていて、それが叶わぬ身なのである。
怪我をしてはじめて得た休暇でもなければ、祖国のために使う時間は、彼に与えられていない、ということではないだろうか。


そこで相撲界の現況を考える。
年間に6場所、間に稽古と巡業、というのが力士のスケジュールである。

昭和30年頃までは年4場所であったのが、6場所に増やされて現在に至っている。
この際の、増やした理由は興行的目的であった、とどこかで読んだ記憶がある。

必然的に力士のスケジュールは、より余裕のないものとなった。
近年、力士の体の慢性的な故障が増加しており、その理由をこのスケジュールに求める見解も少なくないはずである。

その厳しい状況にもめげず、努力を重ねて圧倒的な強さを維持し、ついこの間まで唯一の横綱として、日本の相撲のシンボルとなる重責を担って来たのが、朝青龍である。

それゆえ、彼の体は故障した。
それゆえ、滅多に故郷に帰ることもままならなかった。

これは、相撲界の体制の問題ではないか。


日本人は、世界の中でも突出して、勤勉であるという国民性を持っている。
しかしそれゆえに、勤勉を当然とする風潮がある。

雇用者は労働者に対して、休みなしの長時間労働と高い業績を、当然のことのように要求する。
そしてそれが達成されなかった場合、その責任を個人の資質の問題に帰する。
決してシステムの問題にはならない。

これは、昨今のワーキングプアの問題にも通じる、日本の大きな問題点である。
休日深夜までの労働、規制緩和と価格破壊に基づく、度を超したコストダウンへの対応。
組織の個人への要求度は近年加速度的に高まっており、労働者はそれに対して、かつてと同じ自分の身ひとつで対応しているのだ。

ついて行けなくなって破綻する人が増えれば、国の栄光も続かない。
締め付けにより業績を上げる方法は、もう限界に来ている。
日本は、考え直さなければならない。

相撲の伝統を長く継承し繁栄させようという努力は本来尊いものであるだろうが、興行の成功やファンの獲得には、上限がない。
もっと努力すればもっと増やせるはずだ、という方向で考えれば、きりがないのだ。

ファンを大切にすることはもちろん大事だが、力士を潰してまでファンサービスをするとなれば、これは本末転倒である。

相撲界は、年間のスケジュールを、本当に考え直すべき時期にきているのではないか、と、私には思えてならない。


さらに、外国人力士の問題を考える。
近年外国人力士が増えたのは、規制緩和の現れでもあろう。
意地の悪い見方をするなら、日本人力士がハードスケジュールについていけず上位を上がれなくなったために、より体が大きく強い外国人力士が、頭角を表しやすくなった可能性もあるのではないか、と私は考えている。

いずれにしろ、国際化は、時代の流れである。
いかに伝統ある国技であるからといって、貴重な文化・スポーツであるなら尚更、日本人だけのものにしておくことは、できない。

現況の相撲界は外国人力士に、ひたすら適応し同化することを要求している。
しかしそれは、時代遅れで身勝手な要求ではないだろうか。

国際結婚をすると、夫婦の個人的な性格だけでなく、生まれ育った国の社会と文化の違いが培った考え方の違いが、しばしば衝突を生む。
相手の考えが理解できない、相手が間違っているとしか思えないような事態が、現実に生じる。

それでも寄り添い続けるには、お互いに歩み寄るしかない。
一方だけが我慢する状況は、いつか無理が来て破綻する。
外国人力士を抱えた相撲界も、これと同じだと思う。

その意味で、帰国を含めて外出を禁じるという処分は、何とも無慈悲で狭量に感じる。
朝青龍が気の毒でならない。

そして、こうした「日本に染まりきれ」というやり方の先行きが暗いことを、案ぜずにはいられない。
力士の体の中の祖国の血や、心の中の祖国の思い出までを消し去ることはできないし、そんな権利も誰にもないのだ。

むしろ力士のスケジュールを緩め、彼らの故国への貢献を促進してはどうか。
英雄を独り占めしない度量を示す方が、外国人力士もその故国の政府も、よほど感謝し、力士も日本にいる間、精一杯の努力をするのではないだろうか。

そう考えると、今回の決定はとても残念である。
日本相撲界は、国際化に逆行することによって、自らの可能性を狭めてしまっているように思われる。


さて、以上二点、力士が締め付けられ過ぎていること、相撲界が国際化に対応できていないこと、がこの問題の根にあるのでは、というのが私の考えだが、他の細かい点についても意見を書いておこう。


まず、相撲界だけでなく、それを包む日本人相撲視聴者全体のうち多くが、国際化に対応できていないように思われること。

処分が厳し過ぎるかどうかの程度問題は別として、聞き及ぶ報道や街角の声は、朝青龍批判ばかりである。
「仮病か」とか、「ファンへの裏切り」などという、断罪するような言い方が言下に出てくるところは、いささか空恐ろしくさえある。
日本人力士に対してだったら、これほどの非難を加えるだろうか。

異質なる者を排斥する国民性も、日本人は他国に比べて強い。
国技である相撲に対しては、それが助長される傾向を感じる。
外国人力士であるというだけで、「なんとなく憎らしい」と思ったり、立ち合いの度に「負けろ」と声を掛けたりする人を知っているが、その心情は私の理解を超えて強いものであるようだ。

日本の国技を愛し、日本に染まろうとしてくれている、外国人力士たちである。
私はむしろ感謝の念を抱くべきだと思っているのだが、そうはいかないものなのだろうか。


それから、イベントの場でサッカーのプレイを少しばかり披露したからといって、「体調不良は詐称だ」と繋げる見方も、短絡的な感が否めない。

体調不良にも程度というものがある。
歩けない、立てないというほどの傷害ではなくても、毎日激しい運動、すなわち相撲の立ち合いをするのは止めておきなさい、という状態があるだろう。
鍛え上げた強靭な筋肉が、疲労骨折の腰椎を支えている体である。
相撲の試合を毎日続けることは無理でも、一時ボールを蹴って軽く走るくらいの運動は、できてもおかしいことは全くないと思う。

朝青龍の怪我の程度は、今日明日にどうこうなるような状態ではないが、どこかで休まないと、相撲が続けていけなくなるようなのものであったのではないだろうか。
ならば、稽古期間や場所がまた始まる前に、調整してできるだけ治しておかなくてはならない、と考えるのは自然である。

それを、即、仮病だ、ずる休みだ、とする非難は、残酷だと思う。
力士を、相撲をする機械のように考えているのではないか、と私には思える。
「動く限りは働け、ちょっとでも休むな、止まればお払い箱。」
そんなふうに酷使するばかりでは、力士が可哀相である。


そして、横綱としての自覚、の問題。

休養を理由に休んでおきながら、その間にスポーツをする姿を披露してしまったことは、軽率という他ないだろう。

しかしそれも、モンゴル政府に依頼され、その場の子供たちの期待に答えようと、痛みをこらえてしたのだとすれば、気の毒と思える。
むしろ逆に自分は英雄、横綱であるという自覚が、そうさせてしまったかもしれない。
この見方は、ひいき目に過ぎるだろうか。

またそうでないとしても、場所の緊張を解かれ、故郷に帰って友人や同国人たちに囲まれ、歓迎されてのひと時、若干26才の若者が思わずはしゃぎたくなったとしても、無理はないと私は思う。
日本で厳しい目にさらされていればいるほど、優しく見守ってくれる故郷につかの間滞在する時の、解放感は著しいと想像される。

「横綱は、人格的にも立派でなくてはならない」とは、よく言われることである。

しかし20代といえば、人生の中ではまだまだひよっこで、立身にも不惑にも達していない時期である。
完成された人格を求めるのは、過剰な期待だと思う。

また人間たる者、24時間一年中、聖人君子ではいられない。
常に冷静でいてほしいと思うなら、その生活に、適度な息抜きができる余裕を与えることが欠かせない。
朝青龍の環境に、それは実現できていただろうか。


朝青龍は、過去にも行動の不適当を指摘されたことがある。
それらがどれほどのことだったか、私には分からない。
ただ今回の件に関する限りは、軽率で不見識だったとは思うが、悪質だとは思わない。

それに、さらに言うなら、「今までの問題行動があるから、それらも含めて本人が反省するよう促すために、今回は厳しく罰する」という、含みのあるやり方考え方は、国際的には通らないと思う。

悪い振る舞いがあったというのなら、その都度罰するか、「何の件と何の件が悪いから、その総和としてこれだけの罰を与える」と名言すべきである。
そうでないのなら、外国の人からは、「今回のサッカーの件だけでこの厳罰が与えられた」としか見えないだろう。


誰かが、若さ故の失敗と、もっと暖かい目で見てくれないと、彼は、非常につらいのではないだろうか。

処分は、非常に厳しいものであった。周囲の目もまた厳しい。
しかしどうかくじけないでほしい。打ちのめされもしないでほしい。
失敗を繰り返して、学び成長していくのは、人間として普通のことである。

朝青龍の強さを、愛している人たちが沢山いる。
そしてそれは、彼自身のたゆまぬ努力から生まれたものである。
自信を持って、歩き続けてほしい。

そうした外国人力士たち1人1人の存在が、次第に少しずつ、相撲界の、そして日本人全体の認識を変えていくことだろう。


2007.08.05  





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