弱者のやり方 




 痒みを抱え、日々生きる。
 それが、私の十字架。


起きている時間をフル活用して、
次々と何にでも、取り組んでいく人がいる。
どうにも私は、そうはなれない。

痒みを前提に、物事を捉える。
これに取り組んで、私はやり通せるだろうか。
そのために体調を崩しはしないだろうか。
頭ですばやくそれを考え、OKが出たら取り掛かる。
万事が、そんな具合だ。


社会復帰した今も、毎日は働けず、非常勤として働く。
そのことに対して、時に罪悪感が心の中をかすめる。

仕事は楽しく、高揚感もある。
計らずも積み重ねてきた自分の知識・臨床経験・人生経験。
それらが導き出す診断と治療が、人の役に立つことは、
望外の喜びである。
もっと働き、もっとこれを社会に還元できればと思う。

しかし、頑張り過ぎれば潰れることを、
私の心と体は知っている。


只でさえ、文明が進化し、生活環境は複雑化し、その処理に
多くの精力を必要とする、現代社会。
そして、勤勉さを重んじ、根性でそれを成させようとする、
日本人の気質。

頑張ることにゴールはない。
どこまででもできてしまう。
けれどそうして気づかないでいる内にも、
費やした力はその分だけの負担を、その心身に掛けている。

私たちの命には限りがあり、私たちの能力は無限ではない。
私たちは大勢の中の1人であり、唯我独尊でもない。
私たちは有限の、しかしそれぞれが価値ある者、
そんな存在なのだと思う。

だから、頑張り過ぎずに、頑張り続ける。
そんなふうに生きていくのが、いいのではないだろうか?。
我が身を守れるだけの状況をなんとかして作り出し、
その中で、できる限りの働きを、できる限り続けていく。

さぼりは確かに悪である。
しかし人間、四六時中パワー全開、ではいられないのだ。
そして病む者は、さらに全体の容量を削られている前提を、
いつでも考慮に入れていなければならない。


与えられた生を、全うしよう。
社会の中で何かの役割を、私たち1人1人が果たせる筈だ。
たとえ病んでいても、
病んだ自分でもできることが、何かしらあるだろう。

等身大で生きればいい。
美しい心で、何かを生み出していこう。

2009.4.  

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