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[医師とは]


年末に、「Dr.コトー診療所」ドラマ版第2部の最終回を、何となく思い立って見た。

職業柄、医療ものの物語には全く無関心ではいられないことが多い私であるが、この物語は、漫画ドラマともに、今まで見たことがなかった。
コトーがごとう(五島)先生だとはじめて知ったくらいである(笑)。


見ないでいた要因のひとつは、「離島の医師」という設定になんとなく感じる窮屈さというか、苦手感というか、であろうか。それはおそらく、自分の過去に由来する。

ヒューマニズムに酔いがちな若い頃、ご多分に漏れず私も、「僻地の医師になりたい」と夢想したことがある。
それは大学医学部卒業時の、進路を決める時だ。
医師の王道である内科医か外科医になることを、誰でも一度は考えるように私も考え、有能な内科医となっていずれ僻地で働きたいとも思った。

迷いが振り払えなかった私はその時、結局人生経験の豊富な人に相談して、
「あなたはお嬢さん育ちだから、そうした環境は勤まらないだろう。」と言われ、
まさしくその通りと言い当てられた気持ちでその考えは捨てて、
最も興味を持っていた皮膚科の道に進むことを決めたのだった。


離島などの僻地の唯一の医師というのは、ひとつの医師の理想像である。
そうなれなかった私には、いささか眩しくて、切ないものでもある。

それでもドラマは良くできていて、わりあい素直に見ることができた。


ことに私の印象に残ったのは、コトーの留守を埋める代診に来てくれていた医師が、「僕、ホームシックなんです。・・」とコトーに語り始めるくだりであった。
彼がここで言う「ホーム」とは、家ではなく、自分の診療所とそこで診ている患者さんたちのことである。
彼は、離れていても、その患者さんたちのことを心で思っている。

こんなふうに、私も生きていけたらいいと思った。

患者さんの苦しみに、ただ共感し、ゆっくりと寄り添っていけたらいい。

もう戻れないかとも思えるほどの長い休職の月日を経て、ようやく医師に復帰したこの年に、少しずつ患者さんたちを診せてもらいながら、なんとなく私が日々考えていたことは、そんなことだったような気がする。


「患者さんの病状をいつも最大の関心事とし、その回復を自らの喜びとする」、
それが医師(或いは看護士・代替療法家などを含めた治療家全般)の本質であり、あるべき姿なのではないだろうか?。


人間である医師が、病の方向性を変えようとする所行は、ときに神の領域をも侵す不遜なものであるかもしれない。
といって、現実の医師はまた、さながら魔法使いや神のように、全ての病気を見事にたちどころに治すことができるような存在でもない。

そんなジレンマを抱えたまま、医師である私たちは日々、診療という悪戦苦闘を続ける。


大人なら誰でもする「仕事」というものの1つとして、私は医療を行う。
とどまることなく知識を集め、技術を磨き、経験を糧にして、今日また相対する患者さんの病状に対して、思いつく限りの最も良い判断と処置を下そうと努力する。

この意味で、医師の仕事とは、一生が修行であり続ける職人のようなものだろう。


ただ違うのは、対象が生身の人間であり、しかもその命さえ左右する行為をするという点で、それゆえ従来、先生と呼ばれるような、ある種特権的な職業とも考えられている。

しかし例えば農業や飲食業でも、人間の口に入ってその体の原料となるものを作るのであるから、人体や生命に直結する仕事とも言える。医師が特に偉いとか優れているということもないように、私には思われる。


現代の医師のほとんどがその礎としている西洋医学は、科学的であることを身上としている。科学的であるということは医学に於いて、より進歩的で正しいことと一般に考えられてきたが、それもどうだろうか?。

例えば合成された単一の化学物質から成る薬剤は、投与された患者に、100%の確率である薬効(血圧を下げるとか)を示すかもしれない。これは科学的である。

しかし臨床的に薬が患者にとって「有用だ」と言えるためには、それだけでは全く不充分なのである。
現場の医師は、その薬剤の呈しうる他の作用・配合物質の影響・生体側の生物学的社会的条件といった、数限りないほど多数の要素が加味された状態での結果を見て(或いは予測して)、判断しなければならない。

医療というものは、実に複雑で高度な有機体である人間に対して行われるものであり、単純に科学的であることが極めて難しいかほとんど不可能であるほど、多変量で込み入ったものなのだ。


それらを統合した判断をするためには、一対一対応の機械的な計算能力だけでは、おそらく手に負えない。

その代わりに、どう解釈し治療していくかの指標としての、哲学が必要となるだろう。
経験もまた意味を持つだろう。人間のレベルでなし得た科学的解析の経験を生かすというEVM(エビデンスベイストゥメディスン:根拠に基づく治療)は、まさにそうして誕生したものではないだろうか。


ドラマの中に「人間のすることだから、オペに絶対はない。」という台詞もあった。
これもまた面白い。
オペに限らず、医療全般に、絶対はないということが言えるだろう。人間のすることなのだから。

されば医師は、医療を施し続ける以上、決して不安から逃れることはできないのが宿命である。
自分はこの患者を良い方向に向かわせられるだろうか、今なすべきベストのことをなせているかどうか、という不安。

けれどその不安に後押しされるからこそ、それを少しでも拭うために、医師は学び、練習し、調べ、考える、そうしてある者は工夫をして治療の方法論を拡げようとし、ある者は研究をして何が正しいかの根拠をより明らかにしようとする。

その結果として、医学という学問と医療という技が進歩して、次の世代により良い医療という財産を残していく。
それが、人間の為し得る技であろう。


こうした人間の不完全性、しかしそれと表裏一体の豊かさ、そうしたものに私は今、非常に興味を感じ、かつ愛しく思っている。


今年別の機会に聴いたある医師の講演の発言の中にも、同じようなものを感じたことがあった。
低髄液圧症候群(脳脊髄液減少症)に斬新な新治療を開発し施行している医師、篠永正道氏である。

氏は自らの治療成果をまとめて、全症例のうち7割が改善と報告するとともに、有効でなかった症例についても言及し、「完璧な治療ではない」ことを、ごく自然に認めておられた。
そうして、「どんな治療でも100%(に効く)というものではないので、これは悪くない結果だと思っています。」というようなことを淡々と語られていた。

このような気負いのない平静な視点で行動できる人が、私は大好きである。
どれほど自分が情熱を傾け精力を注いで医療を行っているとしても、自分は人間であり、完全ではないのだ。
謙遜の気持ちを忘れてはならないだろう。

「自分が治せない人もいるのだ」という苦い事実を、受け入れ認める勇気を持っていることも、医師の重要な資質であると私は思っている。


さて、理想的なことばかりを書き連ねたが、これらはみな、私が医師としてそうありたいと思っていることどもであり、それゆえ忘れないようにここに書き留めておこうと思ったものである。


今の私は、再び生まれ直したひよこのような医師だ。
この9か月ほどの間に、かつてしていたことを1つずつ思い出し、10年余のブランクの間の皮膚科の進歩にどうやら追いついたかと思われるところである。
体調面でも、まだ常勤にはほど遠いと言わざるを得ない。

患者としての自分の部分を、ひとかけらずつそぎ落とし、代わりに医師としての部分をさまざまな色に塗り足して、少しずつ変わって行きたい。


来るべき年も、どうぞよろしく。

2006.12.  


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