その医療は害か益か





あなたの薬は、あなたの病気のどこに、どう効いているのか?
自らの体に入れる薬だ。それをはっきり認識していることは、とても大事で、かつ必須なのではないだろうか。

医者へ行けば薬をもらって帰ってくるもの、というのが普通の考えだ。
注射、内服、外用、いずれにせよその薬を使えば、病気は癒えていく。
他の特殊な治療、手術や放射線などを必要とする事態でなければ。

そして病が癒えた暁(あかつき)には、もう薬は必要ない。
不摂生を慎(つつし)んで再び病原を呼び込まないようにしていれば、健康体でいられる。


ーそんな理想の医療像は、意外と現実にならないことが多い。
昔は、使おうにもしかるべき薬がなかったかもしれない。
今は、薬で何とかできる病気が増えた分、逆に薬が終わらない治療が増えているように思う。

例えば関節の痛みに、痛み止めが処方されてそれを飲む。
痛みの苦しみから解放され、心身の消耗を避けられる。
その間に診察や検査にて痛みの原因が突き止められ、手立てが見つかり、期間の目処がつく。
医療が実践され、治癒機転が働くに十分な時間を経て、痛みは止まる。

ところが、原因がうまく除けない慢性の痛みでは、鎮痛剤によるその場しのぎがしばしば続けられる。
本来急性期のみの短期で終了すべき薬が、長期にわたり投与され、副作用の顕在化を招く。
胃腸に潰瘍ができて穴が開いたり、肝機能が障害されたり、薬疹が出るようになったり。

アトピー性皮膚炎もまた、慢性に湿疹をくり返す病気である。
皮膚のバリア機能が弱い、アレルギー反応を生じやすいという体質は、天からの贈り物であり、誰が悪いわけでもない。
けれどその体質は、努力しても気をつけていても湿疹をくり返し苦しむという不条理をもたらす。
やはり急性の湿疹悪化に用いられるはずだったステロイド外用剤が、長期に広範囲に強度の際限なく使用すべき薬として正当化されていく。
かくして、こんなにステロイドを使っていていいのか、なぜそれでも治らないのか、という怨嗟(えんさ)に至る。


癌の治療も、一昔前には想像もつかなかったほど進歩した。
病室での苦しみの期間をほんの少し引き延ばすだけ、と揶揄(やゆ)されていた抗癌剤。今では、生活の質も保った延命効果が明らかに得られるようになってきている。
ただ1つしかないその人の命。
進行癌であってもまだ有効な手段があるとは、どれほど心強いことだろう。

反面、それらの薬は、途方もない医療財政への圧迫源となっている。
1瓶で数十万円の薬が次から次へと保険適応を通り、遂には千万、さらに億の薬まで出てくる始末である。
医療は、どこまで行くのか、そしてどこまで行けるのだろうか。


私たちは医療に、より良い治癒を望む。
正確な診断、適切な治療の適応判断、確実な実行、さらに経過を追い、状況に応じた的確な軌道修正。
それらすべてが何らの医療ミスなく執り行われてもなお、治癒は必ず訪れるとは限らない。
治り切らない病魔の多くにおいて、患者は薬と付き合い続けることになる。

ならば、自分の友であり続けるその薬のことをよく知らねばならない。
常に、そのリスク(危険性)とベネフィット(恩恵)を、天秤にかけることができるように。

その薬があなたに与えてくれるベネフィットは何か?
いい状態を保ち、合併症を防ぐ。
きついときに助けてもらう。耐え難いつらさを回避する。
病気を、なかったことにするため。
他の人に治っている、問題ない、と思ってもらうため。
病気をしっかり抑えたいから、叩きつぶしたいから。
病気に勢いがつかないように、野放しにしないために。
もし、その薬無しでなるがままだったら、何が起きるだろうか。

そして薬のリスクは。
薬価もある意味、リスクである。お財布にきつい。
ジェネリックにするか、先発品か、保険適応内か、医療費補助制度は?
いずれにせよ金額は、誰にも降りかかり、わかりやすい。

だが、副作用の方はといえば、これは大層、不確実なものである。
どの薬もしかるべき安全性と有用性の検証を経て承認されているのだから、みんなに危険ということはない。
しかし、体内で作用するのならばその作用が裏目に出る可能性は必ずあるし、薬の含有成分が体内のどこかに不都合な影響を与えることも生じうる。
薬を体に入れるということは、それがどこか外れの升目(ますめ)に入ってしまうかもしれない、ルーレットを回すことでもあるのだ。

「医原病」という言葉が、もてはやされたときもある。
どの薬も良かれと思って投与されている。
それでも、その数、期間、強度が増えれば増えるほど、副作用を被るリスクが増すことは避けられない。

昨今では、医薬品の作用がよりミクロレベルで捉えにくく複雑となっているため、副作用と断定できる因果関係を証明できないとして、単に「有害事象」とか、それが免疫の撹乱による場合は「免疫学的有害事象」とか呼ばれることもある。
予防接種/ワクチンは病気に使う薬ではないからという理由らしいが、「副作用」とは言わず「副反応」という言い方をされる。
専門家はいつも新しい言葉を作りたがり、それによって最先端の自分を演出しようとする。

しかし「新規」はときに、「新奇」に通じる。
例えば、ステロイド外用剤の新薬に、シャンプー型のものが登場した。
入浴前にシャンプーをなじませ、薬の成分の浸透吸収を待ってから、洗髪して洗い落とす。
最強クラスのステロイドだが、それを「短時間の接触」にとどめることで、十分な効果を得ながら、副作用を抑えられると言う。

しかし、誰でもわかることだが、頭皮のすぐ隣には顔があり、眼がある。
シャンプーを洗い流せば顔にかかるし、うっかり目に入りそうになったことのない人はいないだろう。
顔面皮膚は豊富な血流により薬剤の吸収が良く、中でも体の中でもっとも薄い眼瞼、そして薄く柔らかい眼の粘膜からの吸収の良さは突出している。
その分効いて副作用も強くなってしまうから、一般的に顔には弱クラス、眼と周辺にはさらに穏やかな作用のステロイドが設定されているのに、そこに最強クラスのステロイドが一時にせよ流れて付着すればどうなるか・・・。

もちろんそのシャンプー剤を使うにあたり、顔や目に流れないようにという厳重な注意は受ける。
それでも白内障、緑内障に止まらず、薬剤市販後も中心性漿液性網脈絡膜症といった重大な眼の副作用が追加されていっているのは当然の成り行きであろう。
まさに医原病の1つになるわけで、私はどうあってもこの薬を処方する気にはなれない。

また薬ではないが、最近ネット情報で目にした「新奇」なものに蕁麻疹(じんましん)の「自己血清皮内テスト」というのがあった。
専門医の解説により一般向けにテレビ放映されたらしい。番組は見損ねた。
私が不勉強なのだろうか、学会でも学術情報誌でも今まで見たことも聞いたこともない検査であり、概念だ。
原因不明とされていた蕁麻疹の中に、自分の血液の成分が原因となっている自己免疫性蕁麻疹というのがあり、採血をしてその血清成分を皮内注射し、反応があることで診断するのだという。

本当だろうか?
一見もっともらしいが、「自己血アレルギー」という概念に科学的意味があるとは、どうにも私には思えない。
なぜなら血液は一定不変の物質ではなく、常にその内容が変動している媒体に過ぎないからだ。
検査で陽性に出たとしても「今日の今しがた肘を流れていた血清の成分に反応した」としか言えないだろう。

血清は血液成分であり、血液全体から赤血球・白血球(各種リンパ球を含む)・血小板とフィブリノーゲン(血液凝固成分)は除かれている。
だが依然としてその中には、アルブミン・グロブリンといった蛋白だけでなく、日々体に取り込まれ運搬途中にある糖質や脂質、NaやKなどの誰でも持っている電解質、代謝で生じた種々の老廃物、そしてもちろん溶かし込むための水という雑多な物質が、さまざまな濃度で混在している。
血液循環とは、体内で物質を運搬するための道路なのだから、当然だ。

アレルギーを診断するつもりなら、初めからその血清から特定のアルブミンなりグロブリンなりを取り出して検体とし、アレルゲンを特定すべきなのではないか。
少なくとも、血清で陽性であったらその中のどれに反応しているか、検査を進めていくのが、順当な科学的姿勢であろう。
それが結局、今朝飲んだ牛乳由来のアルブミンや、毎日食べる米から吸収されたグロブリンだったということはないのか。
あるいは反応しているのがその日に排泄されてしまう老廃物だったら、明日再検査したらもう陰性かもしれない。

「あなたは残念なことにご自分の血液に反応しているのですよ、ですからこの蕁麻疹が続くことはどうしようも無いですね」と患者の不満を封じ込めるためにしか役立たない検査だとしたら、随分と無駄なことではないか。

いや、無駄なだけでなく、このテスト自体危険ですらある。
何十年か前には、抗生物質の静注開始前に、アレルギーがないかをみるためその抗生物質をあらかじめ皮内注射して赤みや蕁麻疹の反応の有無をチェックする検査が日常的に行われていた。
その後この検査は行われなくなったが、その理由は、皮内テストによってアレルギーになることがあると判明したからである。
そして現在、茶のしずく石鹸アレルギーなどの経験を経て、経皮吸収はアレルギー形成の原因となり、経口吸収はアレルギー耐性を誘導するというLackの仮説(2008年)が、医学界の主流として支持されている。
つまり医学の常識から見て、この皮内テストをすることで、注入された血液の成分に対して新しくアレルギーを作ってしまう可能性がある、ということになる。

テレビは番組を見てもらわなければ話にならないから、視聴者を掴むような新しいネタを求める。
医療においても、もっと確実な検査を、もっと治る薬を、という要望は、尽きることがない。
専門家たる者たちはそれに応え、より良く治すべきであって、実際その努力を重ねているわけだが、その道筋にはかりそめの成功という落とし穴も口を開けているのだろう。

主作用が強くなった代わりに、副作用も強くなってしまったとき、私たちは立ち止まって、考え直さなくてはならない。
何事にも、良い面と悪い面がある。悪い面を無視して、良い面だけのいいとこ取りはできない。
人間のなすことは完全ではないが、できうる範囲で副作用を抑え、また別の方策を探りつつ、それでも副作用に出会ってしまったときにはより早く気付き、逡巡(しゅんじゅん)することなくきっぱりと方向性を変える。
そんな賢明さを持ち続けていたい。
そうして医学はより良いものになっていくはずだ。


クスリはリスクだとしても、足抜けできない深みに嵌(はま)ったと悲観することはない。
例えば、高齢に伴い動脈硬化で血管の柔軟性が失われ、高血圧になったとき。
それが卒中に至るのを防ぐため飲む降圧剤は、一生ものかもしれないが、それでも生活や体型の変化により、自然に血圧が下がってくることもある。
糖尿病の悪化予防のための経過観察に終わりはないが、2型糖尿病なら、食事や運動の改善で、インスリン等血糖降下剤の必要性を減らす余地は十分にある。

常に薬に依存せずにいたい。
薬を祭り上げもせず拒絶もせず、中庸(ちゅうよう)でいて、必要なときに必要なものを必要なだけ使える者でいられるといい。
どんな病気であっても、薬の要らない健康体を夢見る自由はあるはずだ。
今、必要な薬を過不足なく使いながら、もっと病気に煩わされない将来を諦(あきら)めない。
それが、薬との良い付き合い方なのではないだろうか。

2020.6.  




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