苦しみが潜伏する





生きていくことはしんどい。
今に始まったことでもないが。
もし不健康であればそれだけで、そのしんどさは倍加する。

生老病死は人の定めであるし、人の世にあるものは完全でありえない。
機械が故障するのと同じように、人の体も心も故障しうるのは、仕方のないことであるのだろう。
どんな複雑な機械もはるかに及ばぬ精巧かつ巧妙なこの人体であってさえ。

病を得た人はみな思う。
この病気さえ治れば、この症状さえなくなれば、と切望する。
そうなったらどんなに幸せだろうと。


時折私は、自分が医療者になったことの重さを背負いかねる気持ちになる。

治せる病気ならいい。
大概の医者は、「病気で苦しんでいる人を助けてあげたい」という動機で志望するだろう。
ところが、いざなってみれば、治せない病気のなんと多いこと。
「もっと何でも治せると思っていたのに」と、おそらく大概の医者が一度は思うのではないか。

治せる病気は的確に治し、改善できる病気にはその処置を施し、治せない病気にはより良い治療法を探り続ける。それが医者の勤めである。
つねに自分が完全な治療者ではないことをも承知の上で、できる限りの精一杯をしていくしかない宿命であるのだろう。

人体を相手にするという特殊性を除けば、医者は一種の職人という見方もできる。
勉学と修行によって、ある分野に於ける確かな診断と治療の技術を得、それを患者に用いることで使命を果たしていけるのならば幸せだ。

ところが、こと治せない病気に関しては、この論理ではやっていけない。
その時、医者はどう振る舞うべきなのか?。
何をすべきで、何をすべきでないのか?。
より良い治療を探り続けるとは、言う程簡単なことではない。

アトピー性皮膚炎(以下アトピー;私のサイトに於いて"アトピー"と記してあるのは、アトピー疾患・アトピー素因などど書いてない限り全てアトピー性皮膚炎のことです)もそうした病気のひとつである。
症状をある程度抑える方法はあっても、治せる確実な方法はない。

医者自身の精神衛生を考えるなら、自分のすることを限定してそれ以外の可能性は否定するか考えないようにするのが、多分もっとも好ましいことだろう。
それでなくても万事に責任重大な仕事だから、そこまで考えたら身が持たない。
必要最小限の副作用で症状を抑えることができる、薬とその実施要綱があるのだ、それで充分ではないか。

ーそう割り切るべきなのかもしれない。
医者にとっても患者にとっても最も安全な道であるのかも。
それでもそれは医者の立場からの考えだ。
患者の要求はそれと一致するのだろうか?。


医療は時々刻々と変化する。
私の療養前と、診療を再開した現在の間の、皮膚科におけるアトピー治療上の最大の変革は、むろんのことプロトピック軟膏の登場である。

この薬が開発中であった頃、その話題が皮膚科医の講演の最後を飾るのを見た時のことを、私は覚えている。
使用前と使用わずか1日後の写真が並べて呈示され、後者はまるでもう治ったかのようなきれいな肌だった。
とんでもない薬が作られつつある、と背筋が寒くなったことが今でも忘れられない。

さてその薬が臨床応用されて数年、事態はいったいどう変化しただろうか?。


プロトピックは、顔を中心に使用されている。
その臨床効果は全く期待通りのもので、一見してアトピーとわからない顔に改善させるほどの効き目があるようである。

それは一目瞭然な異常な顔のために社会的に差別され苦しんできた患者たちにとって、まさに福音であったかもしれない。
もう人からいちいち違った目で見られて嫌な思いをしないで済む。
なんともない人のようにしていられる。

実際街中でも、近年成人アトピーの重症化に伴ってしばしば見かけるようになっていた、見るからに赤く肥厚した皮膚のアトピー顔貌の人を見かけることがめっきり減ったように思う。


それと同時に久し振りに外来診療を再開した私の気付いた変化は、拍子抜けするほどのアトピーの来院患者数の少なさである。

私の行っている所は総合病院であるから、日常的に通院の必要なアトピーの人たちは、もっと時間に融通の効く近くの開業医を選んで通院しているということなのかもしれないとも考えた。
どうせもらう薬はどこに行っても同じようなものなのだから。

しかしおそらくそれだけではないのだろう。近年のアトピーを含むアレルギー疾患の患者数の増加からすれば、どう考えても少な過ぎる。
皮膚科に来ること自体を止めてしまったり最小限にしたりしている患者たちが、少なからずいるのではないだろうか。


実際、診察室の私の前の椅子に座る少数のアトピーの人たちを見ていても、残念ながら、現状に満足している感じの人はあまり見受けられない。
他の病気の人たちと比べてその度合いは際立っている。

もちろん状態が悪いから医者に来ているのであるから不安なのは当然だが、他の病気の場合と違っているのは、「治療を受けているのにも関わらず、自分が改善の過程にあると感じられない」ということだ。

10年以上前、同じように私が皮膚科外来診療をしていた頃は、もちろん治療への不満を訴えたり表したりする人もいたが、外用ステロイドで皮疹を抑え、保湿剤で肌を守り、内服抗アレルギー剤で痒みを制御するという対症的な方法を、おおむね受け入れてくれている人が多数派であった。
今は治療に疑いや不安を持っている人が多くなっているように思う。

そうなったのは何故だろう?。理由として、幾つかを考え挙げてみる。

1)かつてより、症状が重症化難治化しているため、対症的治療で充分に症状を抑えられず、患者は症状の苦痛を不満として感じる。

2)また、重症化難治化のために必然的に薬剤の総使用量が多くなり、副作用の懸念がより強く出てくる。

3)症状が出ていればそれにより、社会的責任を果たせない(欠勤/休校/無理が効かない)、外観を責められる(汚いもののように見られる/差別される/治して来いと言われる)、といった社会的不適応が生じる。
それは最悪の場合、その人の生存の危機になりうることさえある程のもので、幸いにしてそこまではいかない大半のケースでも、強くかつ長期に続く実生活と感情のストレスに苛まれることは避けられない。

4)一度でもひどい状態になって上記の1)や3)を経験したなら、その後たとえ良い状態になっても、「またあんな風になるかもしれない」という予期不安に長く捕われることになる。
さらに言うなら、自分が経験しなくても他の人のそうした経験を知るだけで、不安は増幅される可能性がある。

5)上記全ては対症的ではなく、根治的治療への指向に繋がる。


これらの患者の疑いや不安を払拭する手段として、皮膚科医はプロトピックを呈示したのであった。
それは確かにステロイドより強力に皮疹をコントロールし、上記1345)の問題を解決しつつあるのかもしれない。

しかしそこにも、パラドックスが生じているのではないかと私は感じている。
それを説明すると以下のようである。

プロトピック以前は、唯一の特効薬であるステロイドをいくら塗っても治らない皮疹なら、患者は出したまま外を歩くしかなかった。
ところが今では次なる作戦がある。「ステロイドで駄目ならプロトピックをつけて治せば良い」と医者や周囲は思い、患者にそれを使わせる。

この「つけて治せ」という考え(ことに一般の人が考える場合)の中では、『今皮疹が見えない状態に消える』ことと『病気が治癒し再び症状が出ることはない』ことが知らぬ間に混同されている。

この時、患者がかりに「一時症状を消すだけの薬は使いたくない」と思ったとしても、混同している人にはその心境は理解できない。
おそらく「すべきことを怠って徒に症状を悪化させている愚か者」にしか見えないだろう。

だとすると、患者を巡る社会的状況はより厳しくなってしまうことになるのではないか?。

プロトピックを塗っている時ふつうに見えるとしても、その患者は治っておらず、つけなければ出てくる症状に、あるいはプロトピックをつけていない体の部分に出ている症状に苦しんでいるはずである。
ところが外からそれと見えなければ、周囲の人に病み苦しんでいることを分かってもらうことはできない。

患者はひとりでその苦しみを抱え続け、解決していかなければならないことになる。


すなわちプロトピックは、社会的に認識されつつあったアトピーの問題を、再び個人の問題という枠に押し込め隠してしまった! という感がするのである。

これは、プロトピック自身の薬理による長期的副作用の可能性と同等以上のプロトピックの罪かもしれない、と私は思っている。非常に、やるせない。

けれどもそれは言うなれば、文明社会の効率主義・科学万能主義の方向性のなせる技であろう。
もしもプロトピックが開発されなかったとしても、遅かれ早かれ他の強力な薬剤が生まれ出て、同じことが起こっていたと思う。
その意味では不可避の流れだ。
薬で病気を押さえ込むことを考えるなら、より効力の強い薬をひたすら求め続けていくしかないのだ。


とはいえ、絶望することもない。
その一方で文明主義には、当然のこととしてその反動の流れも生まれ出る。
抗生物質が誕生し石油の活用が格段の進歩を遂げた20世紀に対して、21世紀は高度の文明を維持した上での自然回帰・人間回帰の時代となるはずだ。

人間を身体全部・精神・魂を併せ持った存在として見る全人的医療、西洋医学だけを正当とせずあらゆる代替医療の可能性を探っていこうとする流れは、確実に起こっている。
西洋医学が顕著な効果を挙げられない、アトピーのような病気に於いては、患者の方が、多くの医者よりも早くその方向に行こうとしているのかもしれない。

さらにインターネットに代表される、誰の手にも入る豊富な情報が、それを後押ししてくれる。
患者は自分で病気について調べ、どんな治療がどこで受けられるかを知るだけでなく、予想される経過や注意すべき点、薬に頼る以外に自分が生活の中でできることさえ、知ることができる。

そんな時代に患者が、薬一辺倒の治療に疑問を抱くのは、ごく当然のことだろう。


日本皮膚科学会の権威筋は、アトピー性皮膚炎治療ガイドラインの整備後、ステロイド拒否を中心とする治療の混乱は収拾されてきたとの認識のようである。
しかし、大変生意気ながら、また残念なことであるが、私にはそうは思われない。

むしろ、皮膚科での治療に不満を持つ人は皮膚科には来なくなった、という状況なのではないかと思っている。

かつてステロイドを止めたいアトピー患者たちに、勇気を持って寄り添っていたある皮膚科医が、著書で「皮膚科医は裸の王様になってしまった」と語っていた。
彼の発言はまさに先駆的であり、困ったことに事態はさらに進行しているようだ。


ステロイドに頼らないアトピー治療を公言する数少ない医者たちがいる。
彼らを訪れる患者はどんどん増えていると聞く。
私の知る関東圏の医者たちの所にも、毎日100人単位の患者が押し寄せているそうである。

患者は医者を選んでいる。
皮膚科医の主流派がどれほど「適切なステロイドの使用こそが正しい治療だ」と啓蒙しようとも、少なくとも一定数のそういう患者たちがいることは事実である。

それでも、そういう患者に応える医者はごく少数で、増えないというのもまた現実なのである。
わずかな医者に負担がかかれば医者も疲弊する。関東圏には入院できる施設さえひとつもない。
決して好ましい事態ではない。きちんとした対応をするためにはそれなりの体勢が必要なのだから。

ではなぜ増えないのか。
それはひとえに、切れ味のいい薬を使わない治療の困難さゆえ、であろう。

一頃は、ステロイドを止めさえすればアトピーが治って薔薇色の未来が開けるかのような、ブームがあった。
しかし現実はそう簡単ではない。

ステロイドを止めることは、アトピーの症状を修飾しているステロイド依存皮膚の治療にはなるが、直接的にアトピーを治すものではない。
アトピー=ステロイド皮膚症ではない。

むしろステロイドによる粉飾を断念することによって、本来の自分のアトピー症状に向き合い、悪化要因と症状の出方の関係に自ら気付き、食餌・生活・環境などを自分の体にとって望ましい方向に整えていく姿勢になることが、症状を緩解させていくのだろうと私は思っている。
これは地道な努力であり、易きに流れぬ忍耐力と強い意志を必要とするし、溢れる抗原の中に私たちが生きているようなこの現代に於いては、それでも奏効しないことも充分にある。

加えて、ステロイド依存皮膚からの回復にしても、一朝一夕でなされはしないのだ。
(もともとのアトピー症状と厳密に線引きして区別することができないので、それにどれくらいの期間がかかるかさえ、未だに明らかにされてはいない。しかし月単位以上の時間がかかることを否定する者はいないだろう。)


臨床的には、脱ステロイドを敢行した結果、数カ月や1年くらいで症状が落ち着いてしまう人たちも確かにいる。
その一方で、何年経ってもひどいまま治らない人たちの存在も否定できない。
この後者に対して明確な青写真を描けないことが、いわゆる脱ステロイド療法の弱点となる。

強い症状が出たままで何か月も何年も暮らすのは容易なことではない。
体の中の状態は、薬漬けよりもずっと健康な状態なのだと言ってみたとしても、苦しすぎる患者の耳には空しく響くだろう。
どんなに医者が善意であったとしても、患者を不幸にしただけでの結果となってしまうかもしれないのだ。


いったいステロイド断ちによって、何%の人が、どの程度の期間で、症状を軽快させることができるのか?。
結局現在までのところ、ステロイドを止めることを支持する少数の医者たちは、そうした客観的事実を示す医学論文を呈示できてはいない。

その理由は幾つか考えられる。

・彼らは少数過ぎて、臨床診療だけで手一杯となっている。
・医者も神様ではないから万能ではない。臨床に強い情熱を注げる医者は、概して研究や論文作成は苦手かもしれない。
・その発表は学会から歓迎されないと分かっている。理不尽に拒否される可能性があると思う論文の作成に、多大な時間と労力を使う情熱を持つことは難しい。
・脱ステロイドで上手くいかなかった患者の大半は、おそらくその医者への通院を止めるだろう。そうすれば経過は追えなくなる。
一般に大規模な権威ある施設でなければ、失敗例をも繋ぎ止めた相当数の患者の統計を出すことは困難である。
・脱ステロイドは即効性のない治療である。ゆえにドロップアウトはより起こり易いと考えられる。

どれも無理のない理由ではあるのだが・・・。


その結果何が起こるかというと、医学界に於いてステロイドに頼らない治療は、「Evidenceが提出されない」ということで切り捨てられてしまう、ということになるのではないだろうか?。
それはそういう治療を行う医者とそれを望む患者にとって、不遇をかこつことを意味する。

その懸念を強くするような皮膚科雑誌の記事を、最近読んだ。
ある良識に富む皮膚科医の、アトピーのEvidence-Based Medicine(科学的根拠に基づく治療)にまつわる講演である。
(皮膚科臨床に役立つEVM:EVMからの提言;日本臨床皮膚科医会雑誌vol.23,No1,2006 P35-38)

その記事には、
ーアトピーに対するステロイドおよびプロトピックに関して、エビデンスは有害性をはるかに上回る有益性を明示している。脱ステロイドのエビデンスとしては、症例を集めた報告が少数あるのみである。
脱ステロイドを望む患者がいる限りその受け皿たる医者も必要ではあるだろうが、医者がそれを唱えるのならばせめて症例-対照研究を呈示すべきではないか。ー
という主旨のことが書かれており、
ーエビデンスをみると、脱ステロイドが有効であるとしても過酷な経過となることが示されており、推奨することは難しいー
ということも書かれていた。

かねてその演者が非常に冷静かつ公平な視点の持ち主だということを知っていただけに、それは私の心に突き刺さる指摘であった。
確かに現状は今そういうところに来ているであろう。

需要がある割には、脱ステロイド業界も、日陰から出られないという閉塞感が否めない。


実際、今私が週1回のみ担当している病院で、「あなたステロイドは体に悪いから今日から全て中止しなさい。」などと患者に言おうと私は全く思わない。
それは蛮勇というものである。

現在私がしていることは、ステロイド(およびプロトピック)とそうでない外用薬とを患者に明確に区別して認識させ、後者の外用薬と内服抗アレルギー薬をできる限り駆使して、前者の外用薬の使用をできる限り抑えるようにする助言である。
それに加えて、生活全般の注意・アトピーに対する姿勢・問診から伺い知れる悪化要因の推定といった助言だ。

それで充分だとは決して思わないが、それが標準治療に取り込まれた敗北だとも思っていない。

患者を徒に苦しめないためには、医者の側に患者を支える体勢・体力とある程度のノウハウがどうしても必要である。それらの獲得を目指して、私はこれからの数年間を過ごそうと思っている。

ノウハウの方は、果たして成功するかどうか分からない。
現状では、個々のいわゆる脱ステロイド医が経験から作り上げた、それぞれのやり方があるのみである。
誰でもできる安全無害な脱ステロイド術など、ないのが現実なのである。
「推奨することは難しい」という指摘も、正しいと言わざるをえない。


それでも、「何十年も続く病気をその間ひたすら薬で抑え続けるのは、あるべき本来の治療法ではないだろう」という思いは消えない。

たとえ現在有効な治療法がなくても、人間の体に治癒力がある以上、未だ解明されていなくても病気が生じた原因や機序が必ずどこかに存在するはずである以上、もっと違った方向性の有効な治療法がいつかどこかに出てくるはずと私は信じている。
その信念ゆえに、西洋医学以外の代替治療を学び続けてもいるのである。

現状はまだまだ過渡期である。アトピー治療は変わり続けて行くだろう。
過渡期の不安定感は避けようがない。


さらに、その不安定感な時期ゆえの弊害もあるように私は感じている。
かつてより強い予後に対する不安ゆえに、治さなければという、患者医者双方の焦りが強くなっているような気がする。

効く薬・症状を消す楽が手元にあり、それ以外の方法では顕著な効果が得られない時に、「使うのを控えておいたほうがいい」と考えて我慢する、というだけの判断力と信念を持てる患者や医者はそうはいない。
強い薬を使って症状をなかったことにしてしまうのが、どちらにとっても楽に違いない。

例えば皮疹が充分に抑えられなければすぐに、より強いランクのステロイドに変更しようとする。緩解させた後は薬を減らせるから、総投与量とその悪影響はむしろ減らせるという期待のもとに。
充分に効くかどうか心配だから、最初からあるいは早めに強めの薬を出しておいたりする。
ガイドラインの許す範囲内であれば、そうした治療になんの問題もない。(より重症であればより強めの薬が使えるのだ。)

あるいはまた、例えばある患者がある医者のもとで、減ステロイドや脱ステロイドの努力を長期間続けていたとしても、皮疹が出続けているのならば、ひとたび何かで他医に行った途端、「これはひどい」といとも簡単に強力なステロイドやプロトピックを出されてしまうだろう。

これらは、濫用に繋がる道ではないのか?。
それらの全てがほんとうに、首尾よく早期に緩解に至り、減量・中止に持ち込めているのだろうか?。

減薬の努力は評価されない。
ただ外観をよりきれいにした者だけが、評価される時代である。
それは歪んでいるとは言えないだろうか?。


患者はさぞかし苦しかろう。

ステロイドをつけるときれいにはなるが治るわけではない。
あるいはつけていてもあまりきれいにならない人もいる。
ステロイドが嫌だとすると診てくれる医者がいない。
アトピーに効くと言っている治療や商品はごまんとあるが、試しても損するばかり。
それでも新しいものを聞くと心が動く。
どうしたらいいのか分からない。
あまりにもいろいろなことが言われ過ぎている(正反対なことさえ勧められている)。
悪化してもその原因がわからない。
何がどう自分の悪化に作用しているのか、医者に聞いてさえ満足な返事は得られない。

ただ、治らない自分に苦しみ続け、自己嫌悪を感じ続けなければならない。

診察室で対面する患者の顔が訴えている。

「言われたその通りにつけているけど、治らない。どうして?。」
「少しきれいになったかと思ってもまた出る。その繰り返し。」
「これから私はどうなってしまうんだろう。」
「痒い、痛い、眠れない。生活していることがつらい。」
「何でこんなに悪くなるの?。何が悪いのか、どうすれば治るのか、誰か教えて。」
「いつになったら薬を止められるのか。つけ続けていて本当に大丈夫なのか?。」

ーとにかくつらい、でも。
ここでそれを言ってもうるさがられるだけでどうなるのものでもない、と半ば諦めて。
彼らはその苦衷を吐露することが叶わずに、密かに苦しんでいる。
私には、そう見える。

そうした苦渋に皮膚科医は目を向け、受け止める度量を持っているだろうか?。
おそらくそうではないことが多かった、あるいは今も多いのだろうと思う。
薬の処方と付け方の説明しかしない医者、はじめの何回かはそれで良くても、その後は・・・。
だから患者たちは、皮膚科医のもとを離れて行ったのではないか?。


ステロイドとプロトピックが一定の成果を挙げている、それは事実である。
きれいな状態を維持できる人も増えているのかもしれない。
しかしそれでも、あるいは逆にそれ故に、患者と皮膚科医の信頼関係はかつてよりも危機に瀕しているのではないだろうか。

医者は「これをつけていればいいのだ」と言う。自分が「患者を良くできている」のだと思っている。
しかし患者は、「なんだってこんなに治らない病気なんだ」と思っている。
医者の思惑と患者の思いは激しくすれ違っているのではないか。

医者とは、患者がそこに訪れることで病苦の思いを幾らかなりと解き放てる場であるべきだと私は思っている。
しかるにアトピーに於ける皮膚科医は、そういう機能を果たせなくなってきているという気がしてならない。
これは危険な徴候ではないだろうか?。


患者が皮膚科医の前で本音を言わなくなった。
患者の苦渋が皮膚科医の目に触れない所に行ってしまった。
それをもってして、患者の悩みが解決されていると医者が勘違いしているのが現状だとしたら、何とも滑稽としか言いようがない。
哀れで悲惨な事態である。

2006.7.  




トップページへ