家のことをする   



実家に戻って4年。


朝起きて肌をなだめにまず入浴し、ベッドに入って休む。
そこまでは変わらなかったが、午後から夕方にかけての行動は、少しずつ進歩していた。

昼食を食べた後午後2時頃にベッドから起き出し、その後1時間位は不安定な皮膚の痒みが落ち着くのを待って居間に座っている。
しかしそれから夕方にかけては、家事の多くをこなせるようになった。
立ち続けることや火を使うこともできるようになってきて、料理もできるようになった。


午後3時以降の時間なら、少し集中してものを考えたり、人と話したりが可能になったのを機に、以前からの懸案となっていた我が家の建て替えに取り組むことになる。

娘や私の住む家としての最大の課題は、無論建材の化学物質の問題だった。
建てた家に住めなかったら元も子もない。このため何年も前から検討をしていた。

始めは大手の建築会社の瀟洒な造りにも魅かれたが、個々の建材やその処理を検討していくと、結局化学物質に対する配慮が不充分な気がしてならない。
何かもっと違う物がどこかにあるはずだと探す中で、OMソーラーシステムを見つけた。

壁紙を張らない木造打ち放し住宅、太陽熱で暖めた空気を床下から出して床暖房という発想、工法を学んだ各地の工務店が気候などに配慮して建てるシステム。
独特で面白いと思い、時期が来たらここに依頼しようと決めていた。

設計に約5か月、建築に約6か月かかった。
あっという間に建ってしまうこの頃の家に違和感を感じていた私には、その緩やかな時間の流れはむしろ安心感があった。

化学物質に敏感であることを告げ、建材もできるだけ照会したりサンプルを見て選んだ。
化学物質への反応は個人により異なるので唯一の正解はなく、住人が反応しない物を使うことが大切になる。

それでも排除しきれない分と、木材からのホルムアルデヒドへの対策として、大工さんが工事中日中いつも開口部を開け放し換気を続けてくれた。
おかげで、当初強かった木の匂いも、入居するときにはかなり弱まっていた。


この住宅建築と平行して私が取り組むことになった課題が、母の看護と家の切盛りだった。

私の回復にあわせるように、母が病に倒れたのだ。
それは、お弁当に送り迎えと手をかけずには済まない私の娘の幼稚園卒業までを勤め上げて、まるで力尽きるようだった。何年も私を看病し続けた果てのことだ。
何とも詫びようもない。

叔母と妹に付き添ってもらって病院に行った母はそのまま入院し、ある程度回復して退院するが、既に予後の限られた命だった。
できる限り自宅でと本人も家族も努め日々を送ることになったが、食べられる物も限られ外出もできず寝たり起きたりの生活となり、短い入退院を繰り返すようになる。


娘は小学校に入学する。

幼稚園の卒園式は母に、小学校の入学式は妹に行ってもらった。
母はつらい身体をおして、妹は仕事を休んでだ。とても感謝している。

まだ小さい子供だからどうしても付き添いが要る。
しかしその役目を果たすべき私は病の床だ。
唯一の我が子の人生の大事な節目に立ち会うという、ごく当たり前と思っていたことすらできない。

こんな時は本当に我が身が情けなくなる。
人に迷惑と世話を掛けるばかりのお荷物にも思えてくる。
しかし多分、そんなふうに考えるべきではないのだろう。

自分の生を自分で無意味にしてはいけない。
いかなる状態でも、生かされている間はできるだけのことをして精一杯生きていかなければならないのだろうと思う。

首、肘、膝の裏、時に顔にアトピーの湿疹、アレルギー性鼻炎を持ちながらもそこそこの状態を保ち、新しい環境に元気一杯の娘が、救いだった。


この時期私の行動範囲は、最寄り駅くらいまでだった。それも歩くのは容易でなく、目的地までは車を運転して行った。
歩いていくのはごく近所、片道5分ほどの範囲がせいぜいだった。

それでも、駅前のデパートやスーパーまで行ければ買い物ができるし、市内の病院まで車で、入退院の母を乗せたり見舞いに行ったりすることもできた。
必要なことはこなせるだけの状態になっていたことを感謝したものである。

鰻で下痢になり入院した時は驚いたが、母の身体は最早油や蛋白質の多いものは受け付けなくなっていた。

調理は大変だったが、人生最後の時期の貴重な楽しみである食事はおろそかにできなかったし、少しでも母に恩返しができることは嬉しかった。
毎日午後に母私娘の夕食と翌日の昼食を用意した。
体力気力が乏しく手の湿疹もあり食事の算段に、動ける少ない時間の多くを費やした。

朝食は私と娘はパン、母はお粥の方が好みで朝自分で作って食べていた。


母の入退院、家事、家の設計に身内の不幸とそれに伴う諸事も生じ、私もようやく少しばかり社会人らしい生活の日々となった。
寝ているばかりに比べて、何事かを成しているという充実感は確かにある。
しかし今の私はそうでなかった日々の生が無価値とは思わない。

形になる成果ばかりでは人生は測れない。
人により時期によりいろいろな生き方がある。
それら全てがその人の思想を作り人生を作るのだから。


急に忙しくなって疲れたのだろう、6月頃には一時私も下痢をし、過敏性腸症候群もまた少し悪化した。
夏は暑さによる痒みが強く、また腕にとびひを起こした。
夜は早く床について身体を休めるように心掛け、幸いそれ以上落ち込むことはなかった。

その年は冬期も、昼寝から起き出す時は疲れを反映してか身体がとても重くはあったが、夕方なら外出できる状態を維持したまま過ごせることになる。

小波大波を繰り返し、本当に僅かずつではあるが、確かに身体は少しずつ回復していることを感じていた。




その年には娘の七五三の祝いをした。
私の冬の悪化を避けることと母の体調の良い時を考えて、早々と9月にだったが。

写真館に予約しての記念撮影など、夢のようなことだった。


そもそも顔のアトピーが悪化して以来、自分の写真は見て楽しいものではなくなっていた。
赤く腫れぼったかったり、皺だらけでくすんだ顔色、どす黒く軟膏を反射しててかてか光ったり、肩にはひっきりなしに顔や頭から落ちた白い粉が降り積もる。

そんな全てが、思い出になったことがそれほど嬉しいか、多分経験していない人には分からないだろう。

そしてその後の全身のアトピーの悪化。
起きていること、外に出ること、じっとしていること、他の何かに一時集中すること、とても難しかったそれらのことが、ようやく少しばかり本当にできるようになったのだ。

私は口紅だけだったが、化粧もした。
髪はとかすだけで精一杯だったのが少し残念だが、まあ仕方がない。
ベルベットのパンツスーツを来て、本当に久し振りにましな格好をした。

アクセサリーは痒くなるので付けられない。
手は赤くしわしわだが、長袖なのでいくらも見えない。
顔は文字通り人間の「顔」で、他人は、顔の様子に比べたら腕などその他の部分の様子はずっと気にならないようである。

身体と入れ替わりに顔がきれいになってしまっていた私は、会う人に「どこがそんなに具合悪いのか全然わからない」と何度も云われた。
今回はそれがさいわいしていることは明らかだ。

具合が悪くなって以来ずっと、やつれと不幸が貼り付いた顔でしか写真に移ることができなかった私だが、その日は本当に久し振りに心から笑うことができた。


髪を整え、少し化粧し、晴れ着を着付けてもらった娘は可愛らしかった。
この節目の行事は娘の一生の思い出になる。滞りなく行えて良かった。

脱ステロイドの、あるがままの病勢に従う療養の長丁場に、こつがあるとしたら、それはその人の人生の大事なポイントを、いかに身体と折り合いを付けてこなしていくかではないかと私は思っている。

療養のために人生をあきらめる必要はない。
片足だけ船に乗せて乗り続けて行けるなら、そうすればいいと思う。


この日の娘の姿はまた、母にも良い思い出となったことだろう。

癌の末期というとよく最後の思い出作りに旅行を、とか、温泉にでも行かせてあげたい、行きたいなどとよくいうが、実際はこの時期の体調と体力では、日々を過ごすのがやっとで、とても遠出などできるものではないのが普通であろう。
病院から自宅に帰ることさえ難しいのだ。

毎日の生活をまずできるだけ苦痛なく、次にその人の望むできるだけ自然な暮らしに、そしてそんな日々の中で、何か小さな楽しみや思い出に残るイベントを作ってあげられたら。
そんなふうに、家族は心がけられたらいいのではないだろうか。


・・悪化から、6年2カ月が経過。







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