☆医療が救うものと壊すもの★





現代西洋医学が得意とするのは急性症状、逆に不得手なのは慢性症状だとアンドルー・ワイル氏は言っている。

急性とは、短期間に大きく変化する病気の様子。
一方慢性とは、長期間持続するあるいはくり返す病気の状態で、その振れ幅は必ずしも大きくはない。

すぐにでもくい止めなくては、坂道を転げ落ちるように悪化して危険な状態になる。
患者がそんな様子であれば、医療の使命はそうすることだ。
切れ味のいい薬をすばやく適量使い、大胆な処置を施し、患者を救う。
なんと頼もしき、優秀なる医療スタッフよ。

ところが慢性疾患では、そうした美しい理想絵図は描けない。
患者は同じように薬や処置を受け取るが、彼らの病気は治りはしない。
いったんよくなってもまたぶり返したり、改善することもなくだらだら続いたりする。
患者は病院と縁が切れない生活を余儀なくされる。

薬にできるのは、体の中のある部分に、違う化学反応を起こすこと。
手術にできるのは、有害な部分を取り除くか、補う物を挿入すること。
それが、本当に体の治癒を促す方向に働くものとなっているのか?
その判断は、慢性状態ではしばしば非常に難しい。

それは、人体が複雑系であるからだと思う。
それともう1つは、物事には原因があって結果があるはずだからだと思う。

体内で起こっている反応はとてつもなく複雑だ。
細胞・組織・臓器・体液などがそれぞれの働きを持ち、
神経系・免疫系・内分泌ホルモン系などの命令制御システムに従い、
神経伝達物質・酵素・遺伝子などを通して情報を伝え、
ホメオスタシスと呼ばれる安定した動的平衡状態を保ちながら、
精神と肉体とを統合させて動かしている。

私たちはその中で、自分たちが知るごく一部の反応を、薬で操作調節しようとする。
けれど投与された薬は、そこだけで効いて終わりにはなっていない。
水に投げ入れられた石の波紋が広がっていくように、次々と周囲へ連鎖反応を起こしていく。
その影響は、おそらく私たちの予想を超えた所まで及んでいるのだろう。

賢明なる体は、影響のうち体にとって不都合なものを、様々なやり方で打ち消していく。
そうしてより良い動的平衡状態を目指す。
私たちが薬を使っても困ったことにならずにいられるのは、そんなふうに体の知恵が、いつでも水面下で黙々と働いていてくれるからに他ならない。

だから、そんな複雑な連鎖反応のすべてを読み切って、予想し尽くして薬を投与することは、私たち人間には不可能だ。
だからこそ、副作用も起こる。
私たちにできるのは、その限界を認めながらも、人知を尽くして予想できる範囲の最善を処方することだけである。

代替療法の世界では、「治療は少ない方がいい」という考えがある。
あそこもここも全部よくしてあげようと脈絡なく大量の施術をサービスするよりも、大事な所を少数施術するだけの方が、いい結果が得られるという、おそらく経験則である。

「薬も、少ない方がいい」のだとかねがね私は思っている。
ゼロにできればもちろん一番いいのだけれど、そもそも病院に来るということはゼロではやっていけない状態になったからなのが普通なので、「それでも我慢しなさい」とは私は言わない。
でも、「どうしても効かせたい」所だけ時だけに、薬とは使うべきものなのではないか、と常々心掛けながら診療にあたっている。

西洋医学はどうしても、「1症状に1薬剤」になり易い。
慢性の場合治ってはいないので前からの薬も止められず、新しい症状が出るたびに1つずつ薬が増え、副作用が出ればさらに副作用対策の薬が加わったりする。
薬だけでお腹がいっぱいになりそうなくらいの、山ほどの処方。
それが笑い話にならない、患者にとって避けられない現実となっている昨今だ。

高齢化に伴う持病の増加、多数の科・多数の病院を併診する患者の傾向、開発による新薬の増加、さまざまに理由はあろう。
けれど、あまりにも薬に頼り過ぎている日本の医療の現状のように思う。

「押しても駄目なら引いてみな」
と昔の人は言った。
なんと聡明なことだろう。
今、この言葉を声を大にして言いたい。
効果の乏しさも副作用の甚大さも省(かえり)みず、ただ闇雲に押すばかりの医療は、何とも情けない。


そしてもう1つ、「もっと原因を考えよう」とも言いたい。

複雑系である人体で起こる反応の原因を突き止めるのは確かに難しい。
慢性の病気ではじわじわと悪化して、時間的因果関係が分かりにくいこともしばしばだろう。

もちろん原因が1つでない、ということも十分ある。
体質の上に引き金が加わって発症した病気なら、体質も引き金も両方原因だ。 コップの水が溢れてアレルギーが発症するという理論によれば、コップの中の水を増やす要因はどれも、原因ということになる。

昔と違い食物も環境物質も数えきれないほど豊富になった21世紀の日本で、体に取り込んだ物の中のどれが一番いけなかったのかを探っていくのは、気の遠くなるような作業にもなりうる。

問診を詳しくすればするほど、必然的に診察時間が増える。
後の患者の人たちをお待たせしないように診察を急ごうとすれば、じっくり向き合って経過を聞くことは難しい。

いろいろな事情はあるのだが、それにしても原因追及を軽んじ過ぎているのが現状ではないかと思う。
これは薬依存治療体制と表裏一体の問題だ。

最近のアトピー治療では、「原因治療をしてもなかなか十分に良くならない病気だから、スキンケアや炎症を抑える治療をきっちりすることが大事だ」と公然と語られている。
しかしこれは、ある種の開き直りではないか。
「有効性が低い」ことを免罪符にして、原因追及の努力を怠っていい言い訳にしてしまってはいないだろうか?

かつて30−20年前頃には、家の中のダニ抗原を減らす指導とか、子供の食物抗原対策としての除去食などが盛んになされていた。
こうした努力にも関わらずアトピーの有病率や重症度が増え続けたのも事実だが、それらが血液検査などで重要抗原として検知され続けているのもまた事実である。

慢性の病気であるなら、慢性につまり長期間にわたって作用し続けている原因があるはずだ。
もし最近特に著しく悪化したのであれば、最近特に作用した原因が何かあるはずだ。

それをできる範囲で突き止める努力はするべきではないのか?
除けるもしくは減らせる原因が1つでもあるのなら、患者の症状と苦痛を軽減するために、それをするべきではないのか?

そうしないで薬による治療だけをしていれば、薬の使用量を無駄に増やしていることになるだろう。
量が増えるならば、副作用をこうむる機会もまた増えることになる。

指導的立場にいる皮膚科医やアレルギー科医がよくこういう説明をする。
「燃え盛っている火(皮膚の炎症)を消すために、きちんと水(ステロイド外用剤)をかけましょう。」

それを聞くたびに私は疑問に感じる。
「火種(原因)が投げ込まれ続けている所に、水をかけ続けること」の非合理性を。
火種が投げ入れられるまま一方で水をかけてそれに勝ろうとすれば、さぞかし水は沢山必要となることだろう。

「火がまだくすぶって残っている時点で水を止めるとすぐまた火が燃え出してしまいますから、きちんと消えるまで水をかけましょうね。」とも彼らは言う。
だがせっかく消しきっても、火種が投げ込まれ続けているのだから、早晩水は乾き、またどこかに新たに火が点くだろう。

「火を消す」ことの大事さを言うのなら、「火種をできるだけ入れないようにする」ことの大事さも、同等かそれ以上に言うべきではないかと私は思うのである。

防ぎきれない火種が、慢性患者を苦しめている。
文字通り湯水のように注がれる水が、ともすると患者に副作用というさらなる苦痛を課す。

"First, do no harm."と言ったというヒポクラテスの志を、医療者は忘れずに受け継いでいかなければならない。

2012.4   

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