悪意をかわせ



他人を貶(おとし)めることによって、自分を浮き上がらせようとする輩(やから)がいる。
所かまわず、ゴミや吸い殻を手からすべり落としていく者らがいる。

人間は性善でも性悪でもないのだろう。
この世には、等しく、善意と悪意とが存在する。


けれどこの頃、以前にはなかったような悪質な悪意に接することが、なんだか増えたような気がしてしまう。

たとえば、悪口。
かつて身近な人たちのあいだでほんの一時(いっとき)吐き出し合い、気晴らしの用途を終えて消えていっていたそれらは、今ではインターネットの掲示板・ブログ・ツイッター等を通じてワールドワイドに拡散され、文字の記録として無駄に残り続ける。

また、多様性という名の、自分勝手。
社会の許容度や自由度が増えた分、自ら理を持ち己(おのれ)を律する必要があるのだが、そうはできない、人に迷惑をかけても傷付けても意に介さない人たちがいる。

そして長く続く、不景気。
生活や経営が苦しく、どうにもならなくなれば、背に腹は代えられず、人や物の強制的な切り捨てが生じる。
上り調子の世の中と比べて、荒れやすいのも、むべなることなのかも。


おそらく今日どんな業種の人でも、一昔前より増えた厄介なクレーマーや、始末に負えない頑迷な仕事関係者らへの対処に、苦慮しているのではないだろうか。

私の住む世界、人の命に直接関わり、ことさら仁が尊ばれるべき医療の世界すら、例外ではない。


理不尽な訴えには、対抗したくなる。
その内容が不正だと思えば、正すのが正当なはずだ。
実際、けっして盲目的に屈するべきではないと思う。

しかし、子供じみた我が儘な思考の相手と、同じ土俵に下りていって闘うのは、しばしば無益だし危険でもある。
意地でも我を通そうとするのが、子供というものだから。


悪意に負けてはならない。
それはあまりにも、勿体(もったい)ない。
明日のより良きこの世に、善意こそが、生き残る価値がある。

そのためには、必ずしも悪意に勝つ必要はないだろう。
ただただ処理して、あとは見下げ果ててあげればいい。

昔の日本の親は、こう言って子供をしつけた。
「誰も見ていなくても、お天道(てんとう)様は見てるよ。
 お天道様に恥ずかしくないことをしなさい。」

さあ、今、自分がしようとしているのは、
太陽に向かって胸を張れることだろうか?

2013.03.  
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