日本の医療事情



失敗しないフリーランス外科医のテレビドラマが、好評だった。
彼女を見ていて、まるで水戸黄門みたい、と思った。
すべての病気の困難を、無類の手術技術という印籠で、一挙に解決する。

病気で行き詰まったとき、救ってくれる人。
名医、ヒーロー、良医、赤ひげ先生。
困っている病人にとって、どうしても必要な存在。

でもその一方このドラマのファンの中には、
「自分もこんなふうに失敗しない一流の仕事師でありたい」という願いや戒めとして、見ていた人もまた少なくないのではないだろうか。

誰でも日常の生活の中で、なんらかの任務を背負っている。
働くのはなんのため?
生活の糧(かて)を得るため、生きている価値を見出すため。
糧は、明日も生きていくために。
価値は、生きている意味を、自分に見出すために。

仕事とは、稼ぐためと他者のためにするもの。
前者と後者の割合は、人により業種により異なるだろうけど、
こと医療に関しては、前者だけということはありえない。
患者という他者を、救うための仕事なのだから。


どんなに良質な医療サービスであっても、
アメリカのように、高額を要求されるのは大変だ。
一時のイギリスのように、入院1か月待ち、なんてのも。

病気には誰でもなるし、なったときは緊急を要するのだから、
アメリカのような質を維持しながら、
イギリスのような量不足も起こらないようにしなければならない。

そこへいくと、日本は従来けっこう上手くやっていたのだ。
国民皆保険制度で、もれなくあらゆる国民が、適度な金額の負担で、
患者自身が望む医師を選んでフリーアクセスできる。
こんな制度は、世界中探してもない。

私自身は、保険診療と自費診療、双方にたずさわってもいるが、
評価の定まった一般的な治療は保険に、あとは保険外で個人の責任で、
という区分けも、いたって合理的だと思う。


高齢化と医療の高度化で保険財政が年々厳しくなっているので、
政府は患者のフリーアクセスを制限したいようだが、
私はそうしないほうがいいと考える。

医師のごく少ない地方在住者では話が別で申し訳ないが、
都市部に住んでいて、医師を選ばない日本人はいないだろう。
インターネットで遠方の名医を選ぶことすら可能な時代に、
なんの病気でもこの先生にしかかかれない、と言われて
納得できる者がいるだろうか。

誰だって、自分の病気をより良く治してくれる医師にかかりたい。
その発想、志向は、ある意味合理的と言えないか。
自分の病気に対し知識・経験豊富で技術も高い医師にかかれば、
無駄なことをされずに最短距離で、治癒や安定状態に至れるだろう。

卑近な例として1つ挙げさせてもらうと、
分厚い足の爪を内科で水虫と診断され、
外用剤とともに、内服抗真菌剤を半年以上服用していた方がいた。
しかし私たち皮膚科専門医の目と検査法で診ると、水虫ではなかった。
半年以上分の薬代は、まったくの無駄ということになる。

専門外の医師が長く診ることは、結局は医療費の無駄を多くする。
患者は治らず、患者の満足度は低下し、保険財政はむしろ悪化する。
いいことは何も起こらない。

今日の高度に発展した医療を、1人の人間が網羅することは不可能。
どの医師にも、よく知っている専門と、そうでない領域がある。
家庭医もすなわち、プライマリケア(初期診療)専門医なのだし、
総合診療医ですら、全般的な鑑別診断に長けた医師という専門だ。

「頭のてっぺんから足の先まで、全部治せる医師」というのは、
一般の人が抱く尽きせぬ夢、つまりは幻想にすぎないのである。


この幻想に付き合えという一般人からの強要は、
その意図に反して、医療崩壊を進行させる力となるだろう。
医師をつぶし、病院・診療所を疲弊させるだろうから。

アクセスできる医師がもし決められてしまった場合。

最初に受診できる唯一の医師となるかかりつけ医は、
もし自分の能力と守備範囲に誠実であろうとすれば、
しょっちゅう紹介状を書いていなければならなくなる。
紹介状書きは、医師の本来業務ではない。
患者自身にもできる病歴の提示に、長時間を取られる事態となれば、
医師の勤労意欲は、とうぜん低下する。

自分で治療せずに紹介ばかりすることを、
はがゆく思う医師もいるだろう。
すると彼らは、これぐらいの患者はなんとか自分でできると判断し、
能力を上回る患者を診る機会が増え、ストレスを抱えるようになる。

開業医なら、患者を失うことが経営に与える影響も考えざるを得ない。
無理に全部自分で診ようとすれば、もちろん患者に不利益だし、
医師自身も、うまく治せないという思いにうちひしがれる。

つまるところ、自立経営させている一般開業医や中小病院に、
すべての患者の医療の窓口となるゲートキーパーの責任を負わせ、
救急のトリアージにも似た患者の分類を行わせるのは、無理なのである。

現状でも、大学病院などの高度先進医療を行う施設には、
紹介状なしでいきなりかかることはできなくなっており、
中規模指定病院では、直接アクセスに超過料金が必要だ。
フリーアクセスを制御するゲートコントロールとしては、
これで十分ではないかと思う。

どの医師も、日常の診療の中で、患者がもっとも適切な医療機関で
診断と治療を受けられるように、患者の紹介を行っている。
患者が自分で適切な医療機関を選べるのなら、
それをさえぎることに、いったいなんの利があるだろう。

しかも、この紹介の中には、社会的状況による理由も含まれる。
高齢化とか、仕事をかわったとか、引っ越しとか、家族の病気とか。
病状からみて最適の病院でも、そこまで通えなければどうしようもない。
患者が自ら選べば、最初から自分の行ける病院の中で選んでくれる。

さらに、医師も患者も人間だから、相性だってある。
この先生とはどうしても合わない、と思ったときに逃げ道がないのでは、
患者の苦しみも、いや増すだろう。

かかりつけ医の限定は、
患者の不満を増し、医師をも不幸にし、
経済的にも事務的にも新たな無駄を生産する。


さまざまな状況が、日本の医療を厳しくしている。

人体は複雑系で個々に異なり、病気には未解明の病態も多い。
診断治療行為は危険を内包するし、向上には未完成の段階が不可避。
そんな医療の不確実性ゆえ、避けがたく生じうる不幸な結果を、
悪意ある犯罪と、同列に論じられたりすることもある。
患者の集中や、過大な要求によって、医師の集団退職なども起きている。
医師の能力低下に対する懸念も消えない。

けれど医療を守るには、
日本より悪い他国の制度をありがたがって追従するのでなく、
世界に冠たる日本のこの医療制度を守っていくことこそが、
重要なのではないだろうか。

そのためには、医療が善意のものであるという共通認識を、
医療側と、患者・マスコミ・司法を含めた一般側とが、
持ち続けなければならない。

医療は、救いのわざなのだ。
病気で困っている他者を救うことを目的とする仕事である。
まともな医師ならば、患者を悪くさせようと治療を行う者はいない。

善意の医師を、医療の不確実性ゆえに責めるのは間違っている。
他者を救いたいというその意欲を、そいではならない。
意欲さえあれば、医師は学び、無知による過失も減少していく。
みなに意欲があれば、施設としての体制も整っていく。

稼ぐために汲々とせず、他者のために力を注げるような医療環境が、
医師が良い診療を行うための助けとなるだろう。


医師は毎日、患者さんの快癒を願って格闘している。
ぎすぎすした雰囲気の中ではなく、
穏やかに信頼し合う関係の中で、
日々の診療が行えたらいいと思う。

そして臆することなく医師が働けて、
より多くの患者の方が、より早く安楽になれますように。

2014.2  

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