惜別



本田美奈子さんが亡くなった。
まっすぐに生きていたとても素敵な人だったと思うので、悲しい。
テレビ番組で退院間近と聞き回復を喜んでいたが、その後ほどなく再発していたとは。

若い魅力的な人の死は、その人がもっと生きていてくれたら、と、遺った者たちに思わせずにはおかない。
しかしそれは、詮無き望み。


病気とは何なのか、望みもしないのに、人を捕らえる。
作用するのは宿命や因果の法則?。それとも単なる偶然か運・不運。
私は、そのどちらもあるのだろうと思う。


私たちの日々飲食する物は、私たちの体の構造を再生産し、機能を造り出す。
環境は喉と皮膚を通して取り込まれ、体内の機構に影響を与える。
生活態度が肉体を、あるいは鍛え、あるいは疲労させる。
思考や心情が、脳に、活性化や不活性化の指令を出させる。

こんなふうに私たちの体が日々作り変えられていることを考えれば、私たちの体に起きること、体調の変化や病気も、ある程度までは原因と結果(因果)の法則で説明できるのではないだろうか。
そして残りがきっと、病原体や発癌物質に遭遇したというような、運の要素なのだ。
因果が多いか、運が多いか、それはその人の状況により様々であろうが。


本田さんは、本当に頑張りすぎるくらい頑張る人だったようだ。

ひとつ、思い出がある。

ミス・サイゴンの初演の折、本田さんと市村正親氏を観たくてチケットを取った。
しかしちょうど彼女が足趾を骨折して休演した時に当たり、キムは代役で、彼女の姿は見られないのだと私は残念に思っていた。私に限らず、その場の誰もが同じ気持ちだったろう。

開演のため場内が暗くなってから、松葉杖の人が周りを囲まれて入って来て、舞台がよく見える客席に座った。場内が少しざわついた。当然暗くて見えなかったが、それは彼女だったのだろう。
彼女は、自分が出られない舞台を客席からずっと観ていた。
「なんて人なのだろう、真面目というか、強いというか・・」と驚き心打たれたことを覚えている。


記念すべき20周年を前にしての発病は、絵に描いたような悲劇だ。
けれども、穿った見方で逆に考えるなら、もしかしたら、彼女には、これ以上頑張れない、先に進めない、今の体で目白押しの記念公演を彼女らしく立派にこなすだけの力が残っていなくて、彼女の体が、それでも頑張ろうとする彼女の心を押し止めようとしたのかもしれないなどと思う。

折れそうなくらい細い体は若い頃からであるが、その底抜けの笑顔とは裏腹に、目の下の隈が濃く頬がやつれたような昨年あたりの彼女をみていると、そんなことを考えてしまう。
闘病という大変につらいものにせよ、それは社会人として決まってしまっている仕事をキャンセルする、正当な理由になる。

それが一時のブランクでなく、終末になってしまったことは、まったく悲劇であるが。


人は死すべきものであり、その時はいつ訪れても不思議ではない。
それでも私たちは、できるだけ長く充実した生を全うしたいと願う。
例えば私なら、少なくとも娘が一人立ちするまでは元気でいなくては、などと思う。
誰しもそうした目標があるだろう。
しかしそれを成し遂げるために私たちが与えられているものは、生まれ持ったこの身体、ただひとつなのだ。


自分の持つ能力を最大限に発揮させ、長持ちさせるためには、私たちはこの体に於ける原因と結果に注意を払わなければならないだろう。
つまり、自分の体に関心を持ちそれを大事にしなければならない。
運不運は如何ともし難いとしても、原因を左右することで結果をより良くできる可能性はある。あわよくば、不運さえも乗り越えられる強さを手にできるかもしれない。


喫煙・飲酒・肉や油ものばかりの食事を延々と続けていれば、生活習慣病になっても文句は言えない。
アトピーに関してはそれに比べれば因果関係の明確でないものが多いのだけれど、それでもある程度、良いとされている生活習慣はある。

快楽に身を任せた食や生活はほどほどにして(精神衛生上完全にストイックになるのもどうかと私は考える)、身の回りの環境をできる範囲で整える。人に盲従せず、自分が何をして生きていきたいか、どう生きれば幸せなのかを考え、それに従って自分の生きる道を探っていく。

そんなふうに生きていくことが、自分の体を大事にし、活かし、生の意義を謳い上げることになるのではないかと思う。


私が大好きなのは、そんなふうに、自分に正直に一生懸命生きている人たちだ。
そういう、自分に対して誠実な人は、必ず他人に対しても誠実なので、見ていて非常に気持ちがいい。

本田さんもまさしくそうした一人である。そんな彼女は、むろん自分の身体を大切にしていただろう。彼女は、自分の生を完全燃焼し、最後まで誠実に生き続けた。

それでも、彼女の悲劇は、もしかしたら、どこまでも頑張るというその美点によって、持って生まれた生命エネルギーをより早く使い果たし、致死的な病につけ込む隙を与えてしまったことなのではないだろうか、と思ったりしてしまう。
それはおそらく、遺された者が自分の持て余す心情を処理し、自分を納得させるための、手前勝手な思い込みなのだろうけれども。

とにかく悲しい。ご冥福をお祈りしたい。
素敵だった人がこの世からいま一人消えたことを、ひたすら残念に思う。


この世には素敵な人たちが沢山いる。
そうした人たちとともに生きていることを幸せに思い、私も精一杯生きていきたい。

アトピー性皮膚炎がもはや子供時代だけの病気ではなくなった現在、私も含めて多くの人が、患者として、あるいはアトピー体質を持つ者として、一生を送るのだろうと思う。
それでも、だからその人の生命には輝く資格がないということにはならないと言いたい。
その人にはその人のいい所がある。

アトピー体質を得たことは、不運と云うべきなのかもしれないが、そんな時代や環境に生まれたゆえと考えれば、宿命とも云える。嘆いても仕方がない。与えられたこの身体、肉体と心を、慈しんで生きていきたい。

遺った者たちは、亡くなった人の分も、生きていくのだ。

2005.11  

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