[雅子妃によせて]



. 人にはいろいろな性格があり、ものの見方や価値観がある。
こだわる所・譲れない所は人により違っていて、別の立場の人からみれば、理解し難いものだったり容認し難いものだったりもするだろう。

自分と似た考えの者とだけ関わって生きていけるのなら楽なのかもしれないが、幸か不幸かこの世はそうしたものではない。


誰も悪くなくても、皆が真剣に取り組んでいても、すれ違いや問題は起きる。
それは何とせつないことだろう。

思い通りにならぬことも多いからこそ、人生は挑戦しがいがあり、達成された時の喜びも大きいものなのだ、とは思うのだが。


皇太子−秋篠宮の発言問題は、皇室の人々もまた、自分の立場を人任せにせず自分なりに考え、人間として真剣に生きようとしていることの現れなのだろうと思う。
天皇と美智子妃の、良識を与え自我を育てた教育の成果でもあろうし、制限の少ない現代という時代の反映でもあるだろう。

本音で語り合わなければ改善策も見つけられないわけで、これは避けられない過程なのかもしれない。


しかし、しかしである。
だとしても、私としては、雅子妃に強い同情の念を感じざるを得ない。

病んでそこから抜け出そうともがいている者の弱った心が、味方たる秋篠宮から公言された反対意見に、傷付かないでいることができるとは、私には思えない。
お苦しみの程がひたすら案ぜられる。


この世での出来事には、個人の努力を超えた、「運」というものがあると思う。

たとえば皇室に於いては、プレッシャーやストレスはもちろんそれぞれにあったろうが、美智子妃は男子2人と女子、紀子妃は女子2人の子をほぼ順調に授かり、雅子妃は遅い結婚というハンデを背負った上で、流産も経てようやく得た子が女子だった。

そして、おそらく懐妊を待つための仕儀だったのだろうが、雅子妃は念願であったであろう外国行きの公務も大幅に制限され、婚前に外交に関わってきたというキャリアを持ちながら、そうしたもののない紀子妃よりもずっと少ない回数の機会しか与えられなかった。

巡り合わせ・偶然・時の運・・・?、何と呼んでもいいのだけれど、本人の努力以外の、何か、結果を大きく支配してしまうもの。そんなものが存在すると思う。
人は常にそれと闘い、或いは折り合いをつけながら、自分を貫いていかなければならない。


そして、私がとても悲しく思うのは、次のことである。

ある時ある面でその「運」の強者になっている者の言動は、悪意はないにも関わらず、弱者である者にとって、とても残酷なものになりうるようなのだ。


一生懸命に続けていても、いっこうに芽が出ない時、「努力が足りない」と言われたら、どうだろう。
今これを読んでおられるあなただったら、「そうだ、もっと頑張ろう」と思えるだろうか?。
人間は、機械のように無尽蔵に活力を吐き出し続けられるものでも、そうすべきものでもないと、私は思う。

弱者は強者でないから弱者なのだ。
なりたいと渇望してもなれないでいるのに、「どうしてならない、なればいいじゃないか」と言われてしまったら・・・、
弱者には、応じるすべがない。

弱者は弱者なりの乗り越え方しかできない。
強者が強者であることしかできないように。


誰もが自分なりに生きることしかできず、その方法論はおのずと異なる。

強者と弱者の方法論は、それぞれに、自分に於いては正しいし、同時に相手にとっては間違いにしか見えないかもしれない。
それでも、両者とも正しいのだと思う。


すでに読者の方は連想していらっしゃるのではないかと思うが、アトピーやアレルギーを持つ者もまた、健康という面に於いてのある種の弱者である。
なりやすい体質を持つこと、病気になってしまったことはいわば「運」であり、個人の力の及ぶ範囲ではない。

だからこそ、私は雅子妃に、シンパシーを感じてしまうのかもしれない。
やはり弱者である者のひとりとして。


正直で率直な皇室というのは、悪いものではない。
しかし、雅子妃にとっては、つらい試練でもあるだろう。

何よりも、皇太子が結婚前の約束を違えず、全力で妻を守り続けておいでなのが救いである。
雅子さまの、皇太子ご夫妻・ご一家の、ご幸福と幸運を願って止まない。

そして、賢明な皇室一族の方々が、互いに折り合う妥当な道筋を見つけて、より深い絆の家族となって行かれることを、固く信じている。

2004.12.  

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