[人間と科学−科学万能主義への疑問−]


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ノーマン・カズンズの「笑いと治癒力」(岩波現代文庫)を読んだ。

笑いを治療に用いて自らの難病(膠原病)を克服したアメリカのジャーナリストが、その後取材・勉強・考察を重ね、病気に於ける心身相関・全人的医療・現代医学の問題点について語ったロングセラーである。


今では手軽な文庫になっているこの本は、長文過ぎもせず分り易い表現で、この分野に興味がある人に誠にお誂え向きの本であると思う。
彼の思想は実に客観的冷静で小気味良く、同時に病者を励ます力に満ちている。

その中でも、彼が引用している以下の文献に非常に強い感銘を受けた私は、どうしてもそれを皆さんに紹介したくなって、これを書いている。

以下が、その引用された文献である。
(05.05.25岩波書店に、ホームページへの転載差し支えない旨の了承を得ました。)




−『ロバート・R・リニアソン 出典:臨床精神医学雑誌1978.6



病気、特に慢性の病気の場合、患者はそれを治療してくれるという人に対して従属関係を結ばざるを得ない。
もし信頼がこの関係の重要な部分とならなければ、病気の全快はおぼつかないであろう。

患者との信頼関係の重要性を無視する医師は、病気について単純な考え方をしている人が多い。
すなわち病気とは敵であって、自分はそれをあらん限りの技能と科学技術とを駆使して攻撃するという考え方である。
今日のような科学技術では、患者のほうがかえって治療に殺されるかも知れないのに。



医師は文字通りに患者に接触する必要がある。
医学に科学技術の応用される場面が拡がるにつれて、医師は患者からいよいよ遠ざかっている。
もし医師が自分と患者との間に機械が割りこんでくるのを許しておいたら、患者の治癒を促す自分の大きな影響力を失う危険があるだろう。

入念な身体検査は信頼の念を育てる−患者の体に手を触れ、患者の話に耳を傾ける態度がそれに伴うからだ。
患者のほうから言えば、それは生きた人の手の感触を感じ、自分の気持ちを理解してもらうこととなる。
そうして初めて医師は、病気と健康との間の微妙なバランスを変える仕事に、患者と協力することを許される。



医師は、将来いつか科学技術が病気を根絶するだろうという考え方に抵抗しなくてはならない。
人間は恐怖と無力感とを持つ限り、病気の提供する聖域を求めるだろう。

すぐれた科学者で人道主義者であるジェイコブ・ブロノフスキー(イギリスの科学評論家)は、この点についてわれわれに警告を発している。

「われわれは絶対的な知識と能力を獲得しようとする渇望を棄てなくてはならない。
われわれは押しボタン式の制度と人間行為との間の距離をちぢめなくてはならない。
われわれは人間に触れなくてはならない」』−




さて、皆さんはお読みになって、この文章の中のどこが気になり、どういう感想をお持ちになるだろうか?。


カズンズは、これほど患者の医師に対する信頼の必要性を簡潔に述べたものはないと言っている。
私も、患者と医師の関係のあるべき姿、医師のとるべき態度について、実に端的にかつ深い真理を言い当てているものと思う。

既に30年近くも前に、こうしたことを考え呈示していた人がいたのだと思うと、震えるほど熱い想いを胸に感じる。


そしてそれ以上に私を敬服させたのは、
−医師は、将来いつか科学技術が病気を根絶するだろうという考え方に抵抗しなくてはならない−
という一文である。

これは、私がかねがね感じていたある割り切れなさ、すなわち近年とみに勢いを増しているように感じられる、「科学万能主義」とも言うべき思想に対する割り切れなさを、ほどき合点させてくれるものであった。


そう、確かに科学は、ことに20世紀に著明に進歩した。
私たちはその多大な恩恵を被っている。
さまざまな病気が解明されたし、治療法が開発された。
これからも進歩は続いていくだろう。

それは、人間の活動による、大きな成果である。

しかし、である。
その成果が人間に自信を与えたことが、あるいは人間が科学に過剰な信頼を寄せる結果をも招いているのではないか、というのが、私のかねがね感じてきた懸念なのだ。


もちろん、命を救おうとする気持ち、努力し続け成果を得ようとする気持ちは尊いものに違いないと思っている。

だが、「科学がいずれ全てを解明し、全ての病気を撲滅する」とか、
「科学で証明されたもののみが正しい。それ以外は認めない」
と考えていると思われるような発言を聞くと・・・、

「さあ、それはどうだろう」、とひっかかりを感じずにはいられない気持ちになるのだ。


その気持ちの中身の説明を、以下に試みたい。


まず第一に、人間は絶対者ではない。

科学はある症状を、病気を、克服するかも知れない。
けれどもまた新たな別の問題が生じるだろう。
新しい病気が見つかる、生まれる、今まで効いていた治療が効かなくなる、副作用で新たな病態が生じる・・。
これは、永遠に続くいたちごっこなのではないだろうか。

全ての病気を克服しようとする人間の野望には、果たして意味があるのだろうか、それは、価値あるものなのだろうか。
それができると思い、成し遂げようと思うことによって、人間はより傲慢になってしまうのではないだろうか、という懸念を、私はどうしても感じてしまう。

それによって、地球に生きるひとつの生命体としての分を超えた行動をとってしまい、自分の首を絞めるような結果をも招いてしまったりする結果にはならないだろうか。


そして人間は心を持つものでもある。

決して機械のように、全てを技術で割り切ることはできないだろう。
デカルトの二元論に発した、西洋医学の、臓器を機械の部品と見る医療はここに限界がある。


さらにまた、人間は死すべき生き物である。

全ての病気を根絶しようという野望を抱く科学者でも、人間が死ぬことなく永遠に生き続けるようにできるとは、思わないだろう。

命の有限が前提ならば、ひとつひとつの細胞もまた、有限である。
疲れて、老いて、或いは初めから作り損なって、いつしか構造と機能に障害を生じ、そして最後には働きを停める。

生老病死は、人間の宿命なのである。


ーならば、病気とは、「根絶」できるようなものではないのではないだろうか?。


こんなふうに書くとあるいは悲観論者的に聞こえるかも知れない。けれど、諦めの念で言っているのでないことは分かってほしい。


私たちがすべきことは、「病気をやっつける」こととは、少し違うような気がする。
むしろ、自分の体の有り様(よう)を、考えていくことなのではないだろうか。

「病気を呼び込んだ原因を考える」「自分の体と心を尊重しいたわる」
といったことが、体の損傷を防ぎ、回復を促し、結局は長もちさせることに繋がっていくのではないだろうか。

病気は、いわば機能障害の表出であって、心身が回復することによって自然と癒えていくものなのではないか、と思う。


私たちは自然の営みの中で人としてこの世に生まれ、生まれた以上は何とかより良く生きようとする。
医師の仕事というものも、そのより良く生きる手助けをすることに他ならないのでは、と思うのである。

患者と医師の間に人と人として向き合う交流があってこそ、それは成されるものなのだろう。

2005.5-6  

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