[当事者たること]



アトピーで長期療養ののち皮膚科医に復帰した私であるが、今再び医師として働いている旨(むね)を報告するとその相手から、よく言われる言葉がある。

「そういう体験をしていて、患者さんの気持ちをわかってくれるお医者さんていいですねえ。」というもの。
ときどき私は問い返してみる。「それってやはり大事なことなのでしょうかね。」と。
すると必ずといっていいほど、「そりゃあ大事ですよ。」という力を込めた答えが返ってくる。

ほめられているのか、おだてられているのか。いずれだとしても、プラスの評価には違いない。
素直に喜ぶべきなのだろうに、いつも複雑な気分になってしまう自分がいる。


思い返すのは、自分が皮膚科医になってから10年足らずの頃。
アトピーやその他の慢性に経過する湿疹病変への、外用ステロイド療法の限界を感じ、なんとかならないものかと密(ひそ)かに思っていた。

そんな私が出ていた皮膚科の外来に、乳児期をやっと過ぎた頃の、アトピーのお子さんを連れたお母さんがいらした。
皮膚の症状の程度は、軽度と中等度の間くらい。喘息や明らかな食物アレルギーはない。
ずっと皮膚科にかかってステロイドをつけているが、いっこうによくならず、痒がって機嫌も悪いことが多い、とおっしゃる。
その面倒を見続けているお母さんも、さぞかし辛いことだろう。

「効かないのなら、止めてみましょうか。」
と、脱ステロイドに取り組むことにした。

ステロイドを止めた後、その子の湿疹は少し悪化し、それ以上うんとひどくもならない代わりに、少しも良くなっても来なかった。
一方痒がり方はというと、これは尋常ではなく、どんどんひどくなっていった。

食事はバランス良く、生活も規則正しく、掃除などアレルゲンを避ける環境整備をし、お母さんはおおらかに、夜眠れるように昼間はよく遊んで、といった私の指導と、それを実行するお母さんの努力は、何の役にも立っていないように見えた。
痒み止めを飲ませても、保湿効果のあるワセリンなどを塗っても、痒みにより不機嫌な様子は、改善させられなかった。

夜眠れずに痒がって起きることが増えていき、お母さんは次第に消耗していった。
3カ月ほども頑張っただろうか。
ある日、どれほど子供が痒がっていて辛いかを、いささか血走った眼で切々と訴えるお母さんに、私は限界と感じ、こう言った。

「少しだけ、またステロイドを使いますか?」
そうしてそのお母さんは、2度と私の外来を訪れることはなかった。


これは、私の苦い失敗体験である。
「ステロイドがアトピーを治せないなら、止めるべきじゃないか」
という単純な発想。
それがどれほど甘いものか、現実を思い知らされた1件であった。

アトピーにおいて、外用ステロイドが問題視され始めた1990年代から2000年過ぎくらいまで、おそらく多くの医師が、こんなふうにステロイドを止めたり減らしたりすることを試みて、現実の厳しさの前に、あえなく沈没していったのではないだろうか。

そして2010年を過ぎた現在のように、表立って「ステロイドは良くない」という医師はごくごく例外的、という状況に立ち至る結果となったのではないだろうか。


今にして思えば、あの子の痒がり方のひどさはステロイド離脱のリバウンドゆえで、あと3カ月なり半年なり我慢し続ければ治まって、光が射してきたのだったかもしれない。

けれど、当時の私はすでに、薬で抑えない自分の痒みのひどさ辛さも、我が子が始終不機嫌で寝てくれない痛ましさ憤りも、自分のこととして知っていた。
そして知っているだけに、子供とお母さんのその同じ辛さに思いを馳(は)せずにはいられず、彼女をその状態に置き続けることに耐えられなかったのである。

この場合、患者の気持ちがわかることはなんらプラスには働かなかったように、私には思える。


「他人の痛みは何年でも耐えられるが、自分の痛みは1分1秒が耐え難い。」
ある医師が、自ら病を得たのちにはじめて気付き、そう言ったという。

他人事であれば、耐えられる、放置していられる。
それは、良い意味でも悪い意味でも、真理だ。
患者の気持ちを、理解し寄り添うことができるのは、もちろんいい医療者だろう。
だけどそれは、専門技術者としての技量を充分発揮できている上でこそ、はじめて意味をなすもののように思う。

手術が下手な優しいいい人の医者と、手術の上手い冷たい性格の医者がいて、どちらかに自分の癌の手術をしてもらうとしたら、誰でも後者の「上手い先生」の方を選ぶのではないか?。

このお母さんにとって私は、前者の医者だったのだ。
だから私は、口惜しくてしかたがない。
自分が治せない医者でいる限り、「患者の気持ちがわかる」というほめ言葉は、何の足しにもならない。


少し厳しい見方をすれば、ことアトピーに関しては、どんな皮膚科医もこの「下手」でしかないのが、現状なのだと思う。
だから、患者さんからみれば、下手な優しいいい人の医者と、下手な冷たい性格の医者の間での選択であって、だったら前者の方がいいよ、という話なのだと思う。

限りなくへそ曲がりなのかもしれないけど、だから私は、アトピーで苦労しておられる患者さんなどから、「患者の気持ちが」と言われると、「医師がアトピーの患者さんたちを治せない現実」を突きつけられている気がして、どこかで自責の念を感じてしまうのである。


もっと言うならば、だから私は、既存の日本の西洋医学の枠組みから、はみ出さざるを得なかった。
今をごまかすのではなく、時の力に頼るのでもなく、積極的に治癒に近付いていく可能性を持った何らかの方法、専門家であればこそできるそんな何かを切望して追い求めていったら、こうなった。

定まった評価に安住することなどできない、苦闘と挑戦と発見の日々。
けれど、患者の身体の神秘に肉薄している実感のある技術を仕事として行う身になれて、ようやく私は、医療者として自分にできるだけの責務を果たしている安心感を得ることができたのである。


当事者であることは、苦しい。
知覚される苦痛や、日々の不便や、周囲との軋轢(あつれき)や、過去への心残り、未来への失望。
果てしなくくり返されるそれらに対する、煮えくり返るほどの感情。
それでも、何事もないかのように、社会に適応してゆかねばならない。

患者の気持ちを思いやるとは、その当事者の苦悩を追体験することだ。
もちろん、たいへんに辛く、しんどい。
けれど良い医療者は、自発的自動的にそれを行う。

人を癒す、という大それた作業を仕事に選んだゆえの業(ごう)である。
しないですむのなら、自分の気も楽だろうに、なんと自虐的なこと。
「患者の気持ちを察する」ことをほめられた時の心の疼(うず)きの中には、そんな業を持った自分へのあざけりも、またある。


下手で冷たい医者には、なりたくないのだから、しかたがない。
だれでも、そうして努力する。
そうして、何かができる、意味ある存在に成長していくのだろう。
当事者であることの苦悩を、輝きに変えられるかどうかは、自分次第だ。

2011.12.  


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